国宝・狩野永徳筆「洛中洛外図屏風(上杉本)」が文化博物館に 2017年2月25日(土曜日)~

狩野永徳筆の国宝「洛中洛外図屏風 上杉本」(米沢市上杉博物館蔵)が京都に里帰りします。これには、祇園祭の長刀鉾、蟷螂山、四条傘鉾、函谷鉾、白楽天山、鶏鉾、岩戸山、舩鉾の8基の山鉾が描かれています。

京都文化博物館で2017年2月25日(土)から開催される「戦国時代展 -A CENTURY of DREAMS-」に狩野永徳筆の国宝「洛中洛外図屏風 上杉本」が展示されます。会期当初から3月12日(日)までの14日間は原本が、3月14日(火)から会期末の4月16日(日)までは複製が展示されます。会場にはデジタル複製もあり、タッチパネル操作で原寸大以上に拡大して見られます。月曜休館。ただし3月20日(月・祝)は開館で3月21日(火)が休館。

上杉本の景観年代について、今谷明(1988)は『京都・一五四七年』で上杉本に描かれた建造物が同時に存在する期間は天文16(1547)年だけであることを示しました(今谷1988,p.164; 今谷2003,p.239.)。制作年代について、黒田日出男(1996)は『謎解き洛中洛外図』(岩波新書)で『(謙信公)御書集』に「被贈屏風一双、画工狩野源四郎貞信入道永徳斎、永禄八年九月三日画之、花洛尽、被及書札」とあることを根拠に上杉本は永禄8(1565)年9月3日に完成したことを示しました(p.190)。この景観年代と制作年代については異論もあるので、河内将芳(2015)は『絵画史料が語る祇園祭』で「両本の制作年代については、戦国時代の下京を焼け野原にしたことで知られる天文五年(1536)におこった天文法華の乱をはさんで、歴博甲本がそれよりまえ、上杉本がそれよりあとと考えてよいと思われる(p.15)」と記しています。

いずれにせよ上杉本には、応仁文明の乱の後の1500年に祇園會が再興し、天文法華の乱(1536年)で都が荒れた後に復興した京都、天正18(1590)年の秀吉による「天正の地割」で大改造される前の京都が、「およそ2500人もの人物(米沢市上杉博物館)」とともに描かれています。

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wikiペディアに引用されていた図に加筆。青字は原図の説明を翻刻、赤字は筆者が加筆。クリックすると大きな画像が表示されます(1.6MB)。

祇園祭が大好きな方のための上杉本の鑑賞のツボは、次の三つだと思います。
<御神輿と山鉾>
鴨川を西へ渡ってくる神幸祭の御神輿。四条通を東へ進む前祭の長刀鉾、蟷螂山、傘鉾、函谷鉾、白楽天山、鶏鉾、岩戸山、舩鉾。
長刀鉾、函谷鉾、鶏鉾については鉾頭で判別できますし、蟷螂山、白楽天山、岩戸山については山の風流で判別できます。舩鉾は前祭の舩鉾でしょう。傘鉾は二つあるうちのどちらか見分けるのが難しいですが、河内将芳(2015)は『絵画史料が語る祇園祭』で

「傘の上花瓶に生の松」と『祇園会細記』で説明される「四条西洞院西ヘ入る町」の「傘鉾」(現在の四条傘鉾)と考えられよう。(p.102)

として、上杉本に描かれたのは四条傘鉾であると推定しています。また御神輿についても、

神輿のかたちをみてみると、先頭から六角形、四角形、八角形であり、おのおのの屋根のうえには鳳凰、葱華、鳳凰のかざりがみえるので、大宮、八王子、少将井の順ですすんでいたことがわかる。(p.51)

としています。
葱華(そうか)とは、神輿のてっぺんについているネギの花(ネギ坊主)のようなかざりです。2番目の神輿の形が四角形なのはわかるのですが、1番目と3番目が六角形なのか八角形なのかを見分けるの難しいです。しかし、デジタル複製で原寸大まで拡大すると、1番目の神輿の屋根は4面だけですが、3番目の神輿は4面の屋根の両脇にかすかに5面目、6面目の屋根が描かれているのがわかります。

御神輿が鴨川を渡る部分では、人間が渡る橋とは別に御神輿専用の橋が架けられています。最近、話題になっている鳥居は描かれていません。同じ洛中洛外図屏風でも天文法華の乱(1536年)以前に描かれたとされる歴博甲本では、四条通の鴨川の右岸に大きな鳥居があり、鳥居の下をくぐる神輿が描かれています。

秀吉による天正の地割で御旅所が四条寺町に移される前なのに、前祭が四条通~寺町通と巡行していた点も興味深いです。山鉾の祇園ばやしは、町内を出発するときはスローテンポの渡り囃子で、御旅所での奉納の後は軽快な戻り囃子になりますが、この上杉本が描かれた頃はどこでお囃子が変わっていたのか気になります。

この上杉本では前祭の様子だけが描かれているので、後祭で巡行する鷹山が描かれていないのが残念です。

<現在まで続く名所旧跡と地名~三条室町には法衣店>
名所旧跡や地名が屏風上に正しくプロットされ、その大部分が現在まで連綿と続いているのがわかります。例えば、文化博物館の住所は京都市中京区高倉通三条上ル東片町ですが、東片町は本来は曇華院(どんげいん)東片原町でした。つまり曇華院の東側にあったから「東かた町」、あるいは町の西半分がまるごと曇華院で家屋は東側の片方にしかなかったから「東片原町」なのです。その曇華院が上杉本には三条高倉に「どんけいとの」と説明書きをつけて描かれています。
「洛中絵図・洛外絵図」(部分、1.8MB)(国立国会図書館デジタルコレクション)より
他にも「へんけい(弁慶)石」、「くわぢやとの(冠者殿;今は四条の御旅所の西側、上杉本では四条寺町の東北角)」、「おうまん(大政)所」のように今でも同じ場所にあったり、「ぜんちやう(善長)寺」、「あくわうじ(悪王子)」、「たこやくし(蛸薬師;室町通二条下ル蛸薬師町)」のように寺院などが移転した後も公称町名として名前が残っていたりして興味は尽きません。

鷹山のある三條通の室町と西洞院の間では、黒や灰色の衣をまとった僧侶らしき人が四人、暖簾(のれん)がかかったお店をのぞいています。ここの町名は三條衣棚(ころものたな、ころもだな)町といい、名前のとおり法衣を扱う店(たな)が多かったようです。京都町屋ちおん舎「千吉商店の歴史」によると、この頃、三条室町の名門である千切屋(ちきりや)の初代与三右衞門貞喜(1533-1604)が三条通室町の北側で「金襴袈裟法衣等の裂地の仕立て販売」を始めています。上杉本でお坊さんたちがのぞきこんでいる法衣店も三條通の北側ですから、このお店は千切屋さんなのかもしれません。墨染の衣をまとったお坊さんにとって、金蘭袈裟法衣は憧れであったに違いありません。

また烏丸通三条上ル東側には米問屋が描かれています。祇園祭の鈴鹿山がある烏丸通三条上ル場之町は、もともとは「三条米場之町」と呼ばれていたそうです。それで、米の輸送上の難所であった鈴鹿峠の安全を守ってくださる鈴鹿権現(瀬織津姫尊)をご神体にしたといわれています。

<室町通を流れていた川と山鉾との関係>
二条殿(後の龍池(たついけ)小学校、今の京都国際マンガミュージアム付近)の龍躍(たつやく)池から南に流れ出て、御池通を西に流れ、さらに室町通を南に、四条室町で西に、そして西洞院通で西洞院川に合流する川が描かれています。

狩野永徳筆「洛中洛外図屏風・上杉本」(1565年頃)には、
龍躍池~(御池通)~室町御池~(室町通)~四条室町~(四条通)~西洞院四条~西洞院川
と流れる川が描かれているのです。室町通を流れる川は、天文法華の乱(1536年)以前の作とされる歴博甲本にも描かれています。

江戸時代の地図、例えば国立国会図書館デジタルコレクション「洛中絵図・洛外絵図」(1.8MB)を見ると西洞院通の川は残っていますが、室町通の川は消えてしまいます。しかし今でも雨の日に室町通を歩くと烏丸通や新町通の方向から室町通に雨水が流れているのがわかります。つまり室町通に川があった名残で、室町通は隣の通りよりも少し低くなっているのです。江戸時代は今のようにアスファルト舗装ではありませんから、雨が降ると室町通は他の通りよりもぬかるんだことでしょう。

国立国会図書館デジタルコレクションの「洛中絵図・洛外絵図」が描かれた年代は、18世紀前半だと考えられます。詳細は別記事で検討しています。

祇園祭は旧暦の6月、現在と同じく梅雨が明けるか明けないかの雨の多い時期に行われていました。雨の後でぬかるんだ室町通を大きな車輪のついた曳山や曳鉾が通るのは難しかったのでしょう。それゆえ、室町通をほんの少し通るだけでよい菊水は曳鉾ですが、それ以外の山伏、鯉、黒主、役行者は車輪がなくて人間がかつぐ舁山になったのではないでしょうか。新町通には曳山の観音山があるのに、室町通の川の流れていた区間(御池~四条)には菊水鉾以外の曳山、曳鉾がないのは、室町通がかつて川だった名残ではないでしょうか。

当初は
「新町通に曳山の観音山があるのに室町通に菊水鉾以外には曳山がない」
と記述しておりましたが、G-Watcherさんのご指摘を受け
「新町通には曳山の観音山があるのに、室町通の川の流れていた区間(御池~四条)には菊水鉾以外の曳山、曳鉾がない」
と書き換えました。

山鉾町付近では室町通が低くなっていて新町通が高くなっているのを地形図から示すために、山鉾町付近の地図に等高線を書き加えてみました。京都は全体的に南側が低くなっているのを前提にしてこの等高線を見ると、御池から四条にかけての室町通と西洞院通に明瞭な谷筋が、新町通にぼんやりした尾根筋が見つかります。

MuromachiContourMap(クリックすると大きく表示されます。)
この地図の等高線は1メートル間隔で、5メートル毎に太い線になっています。本図の作成にあたっては、Web等高線メーカー(埼玉大学教育学部人文地理学谷謙二研究室KTGIS)を使用しました。記して感謝いたします。

安土桃山時代の京の道路は、真中が高く「かまぼこ」型になっていました。ルイス・フロイス『日欧文化比較』(天正13(1586)年)には、

ヨーロッパでは水を流すために街路の中央部が低くなっている。日本では中央が高く、家々の側が低い。それに沿って水を流すためである。

との記述があります(京都市,1980,『資料京都の歴史4 市街・生業』,平凡社,pp.337-338.)。体重が数十kgの人間が歩く分には十分な排水設備だったのでしょうが、重さが数トンもある曳山を通すとなると事情が変わってくるのではないでしょうか。

ちなみに鷹山のある三條通には川がなく、観音山がある新町通と同じく水はけが良かったので、鷹山は大きな屋根のある立派な曳山にすることができたのでしょう。

<文献>
今谷明 1988, 『京都・一五四七年 ~描かれた中世都市』, 平凡社.(2003年に平凡社刊の別版あり)
岡見正雄・佐竹昭広 1983, 『標注洛中洛外屏風』, 岩波書店.
河内将芳 2015, 『絵画史料が語る祇園祭』, 淡交社.
黒田日出男 1996, 『謎解き洛中洛外図』, 岩波書店.
米沢上杉文化振興財団  2007, 『国宝 上杉本 洛中洛外図屏風』, 米沢市上杉博物館.

鷹山の横を北観音山、南観音山がすり抜けていった?~中井家系の京都図「洛中絵図」に描かれた鷹山(三条衣棚)町

 鷹山は祇園祭の後祭で最後尾を行く大船鉾の直前を進む「くじとらず」の大きな曳山でした。鷹山は三条通の室町と新町の間にあります。当時の後祭は、三条通~寺町通~四条通と巡行していました。
 後祭には、鷹山と大船鉾の他に北観音山、南観音山(江戸時代は隔年交代で巡行)という大きな曳山があります。どちらも新町通にあって巡行の順番は鷹山よりも前でした。
 ということは、巡行の日に観音山はどこかで鷹山を追い抜かなければなりません。

洛中絵図巡行当時の巡行ルート

 観音山が鷹山を追い抜く方法は少なくとも3つ考えらえます。
1) 鷹山を新町通の西側の釜座町に移動させて、三条通を空けて観音山を通す。
2) 鷹山を衣棚通(衣棚突抜町)に建てる、あるいは衣棚通に移動させて、三条通を空けて観音山を通す。
3) 鷹山の横を観音山が通る。移動させる必要はない。

1) の問題点は2つあります。まず、三条通が新町通の西側、つまり釜座町の東部で坂になっていることです。わざわざ坂道を移動させるのは大変です。二つめの問題点は、鷹山の古文書に「巡行の終了後、(寄町である)釜座町に鷹山を曳いていき、あいさつする」という内容が書かれていることです。巡行の前に鷹山を釜座町に退避させ、巡行が終わった後に再び鷹山を釜座町に曳いていくのは二度手間に思えます。

2) の問題点も2つあります。鷹山を衣棚通に建てたのなら、鷹山の場所は「衣棚通姉小路と三条の間」であるはずですが、どの文書を見ても鷹山は「三条通室町と新町の間」にあったと書かれています。また鷹山を衣棚通に退避させるには辻回しが必要で、これも二度手間です。

3) の問題点は三条通の道幅が狭いことです。当時の曳き手がいかに上手であろうとも、曳山の横を別の曳山が通り抜けるのは無理だろうと思われました。

 さて、京都市歴史資料館(寺町通丸太町上ル)で「古地図のいろいろ--手書き地図の世界」というテーマ展が開催されています。会期は2015年9月12日(土)から12月9日(水)です。

 この展覧会に宝永の大火(宝永5;1708年)以前の中井家系の京都図「洛中絵図」が展示されています。この地図で三条通室町付近をみると、三条通の衣棚通付近の北側、今の医健の新館とコインパーキングのあたりの三条通が少し北側に広がって描かれています。

ということは、この三条通が少し北側に広がった場所で鷹山は観音山をやり過ごしたのでしょうか?

<1642年頃作成の「洛中絵図」では三条通が鷹山の所だけ広くなっていた>
 京都市歴史資料館で展示されている古地図より60年ほど前の資料ですが、京都大学電子図書館の洛中絵図(京都大学附属図書館所蔵;flash版のみ;PCの利用をお勧めします)でも三条通の衣棚通付近の北側が広くなっていた様子を確認できます。この絵図は、寛永19(1642)年前後に描かれたとされています。

洛中絵図衣棚鷹山のある三条通室町と新町の間の略図;京都大学図書館蔵「洛中絵図」(1642年頃)をベースに作成

<18世紀前半の「洛中絵図・洛外絵図」でも三条通が鷹山の所だけ広くなっていた>
 また国立国会図書館デジタルコレクションの中に「洛中絵図・洛外絵図」があります。国会図書館がお付けになった書誌情報が少ないのでURLを補っておきます。この地図でも鷹山がある衣棚町(三条通室町西入)の道路の北側が少し広くなっていたことがわかります。
 洛中絵図・洛外絵図_衣棚町付近_国会図書館国会図書館デジタルコレクション「洛中絵図・洛外絵図」18世紀前半

 この地図が描かれた年代も、いつ頃を表現しているかも書誌情報からは不明ですが、地図の繁昌町(高辻通室町西入)に「狩野養卜(常信;1636~1713;木挽町狩野家2代目)」と「狩野探信(守政;探幽の長男;1653~1718;鍛冶橋狩野家2代目;7代目の守道も探信を名乗った)」の名前があります。また鯉山町(室町通六角下ル)に「絵師了琢」とありますが、これは木村了琢(仏画を専門とする絵師で、代々了琢を名乗る)のことでしょうか?さらに東洞院通六角下ルの町名が「諏訪之町」となっていますが、これは18世紀中頃に現在と同じ「御射山町」に変わっています。これらの点から、この地図は18世紀前半の地図だと推定できます。残念ながら宝永の大火(1708年)の前か後かは調べ切れておりません。

大きめの「洛中絵図・洛外絵図」(1.8MB)
 「洛中絵図・洛外絵図」から祇園祭の山鉾町と山鉾巡行の範囲を抜き出してみました。月鉾の御町内が「扇之座町」だったり、船鉾の御町内が「北・南袋屋町」だったり、祇園御旅所が四条通寺町の南側ではなく東側にあったり、鴨川にかかる橋は三条と五条は常設だが、二条、四条、松原は仮設のような橋だったり、御土居(深緑色)があったり、興味深いです。

<三条通に鷹山以外の山鉾がない理由>
応仁文明の乱以降に再興された山鉾の中で、八坂神社の還幸祭の御神輿のルートに重なるのは、大船鉾と鷹山だけで、他の山鉾は御神輿のルート上にありません。前祭の神幸祭の御神輿が四条寺町の御旅所までしか来られませんから、前祭の山鉾が御神輿の邪魔になることはありません。
大船鉾の御町内は東御座が通られますので山仕舞が間に合わない時は御神輿が通られない別の場所に移動させておられるそうです。
しかし、鷹山のある三條通は、中、東、西の3基の御神輿が通られます。御神輿は三条通を大宮から寺町まで直進されますので、別の場所に避けるのは難しいです。そのためにも三條通衣棚の北側のスペースは有効だったのでしょう。逆に言えば、一年のうちたった一日しか使わないスペースを確保できるだけのゆとりが御町内になければ、三条通に山鉾を建てるのは難しかったのでしょう。

<現在の三条通衣棚町付近>
 現在の三条通の道幅はほぼ一定で、衣棚通付近で北側に広がっていた痕跡はほとんど見られませんし、土地の境界を示す境界標も道路と一致していますが、江戸時代は三条通が鷹山を置ける分だけ北に広くなっていて、観音山や3基の御神輿は鷹山の横を通れたのではないでしょうか。

<前祭の放下鉾、岩戸山、船鉾>
 前祭の巡行の最後尾の3基は、放下鉾、岩戸山、船鉾の順で「くじとらず」です。ところが地理的には、北から順に放下鉾、船鉾、岩戸山となっていて、船鉾と岩戸山が入れ替わっています。現在の巡行は新町通を御池通から南下しますので、道路幅の広い御池通で放下鉾が待機し、岩戸山と船鉾を先に行かせます。本来の巡行は新町通を松原通から上がりますので、放下鉾が他の山鉾を待つ必要はありません。しかし、船鉾は岩戸山を追い抜く必要があります。それで、岩戸山の御町内は現在でも道幅が少し広くなっていて、追い抜けるような配慮がされているように見えます。
 鷹山や岩戸山のように他の山鉾の追い越しが必要な御町内は、追い越せるように御町内の道幅を広くする慣行があったのではないでしょうか。

<鷹山は新町通を経て戻ったのか?>
 巡行の後、鷹山は町内に戻る必要があります。新町通を戻るならば観音山の横を通り抜ける必要があります。御町内の記録によると、鷹山は巡行の後、東洞院通四条上ルの角鍵(東洞院通四条上ル阪東屋町にあった長崎糸割符商かぎや又右衛門と思われます)で休息していました。観音山が崩されて新町通が通れるようになった後に、鷹山は新町通を上がって御町内に戻ったのでしょうか?
 新町通ではなく室町通を戻ってきた可能性もあります。観音山のような曳山だと崩すのに時間がかかりますが、舁山は短時間で崩せます。新町通には曳山がありますが、室町通には舁山しかありません。新町通も室町通も道幅は同じです。御町内の古文書には三条通室町の交差点に接する3つの御町内に「今後は事故の無いように」とお願いした文書が残っています。

<鷹山は東洞院通を戻った可能性が高い>
 鷹山は東洞院四条上ルの角鍵で休息した後、そのまま東洞院通を北上し、東洞院三条で辻回しをし、御町内まで戻ったのではないでしょうか。その根拠は次の7つです。

  1. 四条烏丸まで行く必要はない。
     中世から近世の山鉾巡行(後祭)の出発地点は三条東洞院でした。そこから三条通、寺町通、四条通を経てそれぞれの御町内に戻るという経路でした。中世は祇園御旅所(大政所)が烏丸通仏光寺下ルにありましたから、山鉾が烏丸通まで行く意味があったでしょうが、豊臣秀吉が天正の地割りで御旅所を四条寺町に移設した後は、山鉾が烏丸通まで行く積極的意義は無くなってしまいました。
     もっとも享保2(1717)年頃に成立した「京都御役所向大概覚書(きょうとおやくしょむきたいがいおぼえがき)」には、前祭は「四條通東洞院ニ而揃、四條東江、寺町南江、松原西江、東洞院迄、夫より銘々町々江戻り申候」とあり、後祭は「三條通東洞院ニ而揃、三條東江、寺町を南江、烏丸迄夫より町々江戻り申候」とあります。前祭が東洞院(四条)から東洞院(松原)までなのに対して、後祭が東洞院(三条)から烏丸(四条)までとあるのが不思議です。もう少し資料を調べる必要があります。
  2. 東洞院通は大路であった。
     平安京の頃は、東洞院通は東洞院大路といい、三条大路(三条通)、東京極大路(寺町通)、四条大路(四条通)、五条大路(松原通)などと同じく道幅が8丈(24m)の大路でした。それに対して、町小路(新町通)、室町小路(室町通)、烏丸小路(烏丸通)は道幅が半分の4丈(12m)しかありませんでした。実際には本来の道路にまで家屋が張り出して来ていたでしょうから道幅に大きな違いはなかったでしょうが、東洞院通は今以上に存在感のある道路だったのではないでしょうか。実際、森幸安が応仁から天正の京都を推定して作成した「中昔京師地図」には三条東洞院北西(現在のNTTの場所)に町奉行所が、北東(現在の中京郵便局から京都文化博物館にかけての場所)には曇華院(二代将軍足利義詮の夫人の母、智泉尼の創建の大きな古刹)が描かれています。
  3. 東洞院には山鉾がないから通りやすい。
     新町通と室町通には山鉾がありますので、山を崩し終わるまでは鷹山が通行できませんが、東洞院通には山鉾がありませんから鷹山の通行に支障はありません。
  4. 鷹山が休憩した「角鍵」は東洞院通にあった。
     御町内の古文書によると、鷹山は巡行の時、東洞院の「角鍵」で休憩していました。これは、東洞院通四条上ル(阪東屋町)の長崎糸割符商「かぎや又右衛門」と思われます。阪東屋町は四条通には面しておらず、東洞院通に面しています。
     「角」といっても交差点の角にあったのではなく、シンボルマークが「角」だったのでしょうか。この点については、もう少し資料が必要です。
  5. 鷹山の模型を作った「雁半」は東洞院通にあった。
     新古美術三嶋蔵の「鷹山の雛形」は、東洞院六角下ル(御射山町)にあった西陣織物(金襴紋織)商「雁半 中村半兵衛」の旧蔵です。雁半が鷹山の模型を作ったのは、店の前を鷹山が通るので、鷹山に親しみを持っていたからではないでしょうか。
  6. 東洞院三条の交差点は鷹山が曲がりやすいように「すみきり」してある。
     現在の東洞院通は南行の一方通行ですから南西の角を「すみきり」しても意味がありません。しかし鷹山が南から上がってきて西に曲がる時に、この「すみきり」があると楽に辻回しができます。(江戸時代後期に東洞院通が北行の一方通行だったと書いておられる人もありますが基礎資料を確認できておりません。)
  7. 鷹山を寄町の釜座町まで曳いていってあいさつするのに辻回しが4回で済み無理がない。
     鷹山の古文書に「巡行の終了後、(寄町である)釜座町に鷹山を曳いていき、あいさつする」という内容が書かれています。三条通、寺町通、四条通、東洞院通、三条通という経路なら辻回しは4回で済み、合理的です。

 文政9(1826)年、鷹山の巡行は「東洞院三条」で中断してしまいました(御町内の記録)。その後、約190年が経ちましたが、東洞院三条を通るたびに鷹山の御神体や、当時の御町内の方々の熱い想いを感じてしまいます。

東洞院鷹山が御町内にお戻りになる経路(推定);国土地理院の電子国土Webの地形図をベースに作成

 現在は四条通の歩道の屋根が東洞院通の上にも続いていますし、東洞院通の上を横断する電線類が張り巡らされていますから、鷹山が東洞院通を通って衣棚町に戻るのは現時点では難しいでしょう。

<参考>
応仁の乱の後(推定) 中昔京師地圖 森幸安 1753(宝暦3年)  国立国会図書館デジタルコレクション

1642(寛永19)頃 洛中絵図 京都大学電子図書館

18世紀前半 洛中絵図・洛外絵図 国会図書館デジタルコレクション

1945~ 京都市明細図オーバーレイマップ 立命館大学日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点 

現在 電子国土Web 三条東洞院付近の地図 国土地理院