売り払われた鷹山の見送り(懸装品)は何処へ?

江戸時代には、祇園祭で使われなくなった懸装品を売り払うことがありました。その懸装品が近郊の亀岡や大津などの祭りで曳山を飾るのに使われたそうです。

さて三条衣棚町文書の中に
「祇園会神事当家式目」(三条衣棚町文書8117)
があります。表紙に鷹の羽が描かれた竪帖で、同志社の翻刻では年不詳となっていますが、総合資料館のデータベースでは文化6(1809)年となっています。
これは式目、つまりマニュアルで、最初の項目は
5月30日に「今年は私の家が当家(とうや;まつり当番)なのでよろしくお願いします」と町中に触れ回る。ただし羽織下袴着用のこと
となっています。行事日程の最後は
15日 山仕舞 云々
となっていて、その後に、
鷹山諸式預り主覚
という鷹山の懸装品を各家で預かったリストがあります。その中に

一 水引箱 壱  千切屋吉右衛門
 金地麒麟 四枚
 猩々緋縫 四枚
 白地大内桐 四枚
 紺地龍 壱枚  天保二卯年十月廿八日売拂 出入帳ニ入有之
 唐織菊 壱枚
  常掛天水引
(略)
一 見送り箱 壱 野沓屋吉兵衛
 横縫花鳥 壱枚 鳥飾弐本
 獅子   壱枚 
(略)
一 天水引 千切屋次兵衛
 猩々緋鳳凰
 朱八ツ足臺 三
 木綿日覆
(略)

この預かりリストの後に、当家(とうや;祭の当番の家)のリストがあり、文化6(1809)年から慶応3(1867)年までの当家が記録されています。

千切屋吉右衛門預かりの水引箱に入っている物で、4枚セットの懸装品は現在の言葉でいう天水引や中水引などで、1枚しかないのは見送りでしょう。紺地龍の見送りというと三島さんがお持ちの「鷹山の雛形」の見送りが連想されます。

紺地龍 壱枚  天保二卯年十月廿八日売拂 出入帳ニ入有之

天保2(1831)年に売り払われた鷹山の「紺地龍見送り」は、今もどこかのお祭りの屋台を飾っているのでしょうか?

%e9%a4%a8%e5%8f%a4531_08117_0046s

 

鷹山の山仕舞、曳山の山仕舞 2016年7月24日(日)、25日(月)

鷹山の居祭の舞台裏(?)
鷹山の居祭の舞台裏(?)

明倫誌」(1939年)には鷹山の居祭について

現今六月八日吉符入。六月十一日人形飾。六月十三日晝(昼)飾。六月十四日山鉾が三条通を東行し終ると直ちに納める。

と書かれています。祇園祭の日付は変わりましたが、山鉾が巡行する日の午前中に鷹山の御神体を仕舞うのは今も同じです。

籐の箱のフタにさりげなく「文化十二年亥六月」と書いてあります。文化12年は西暦1815年。今から200年ぐらい前の箱です。

祇園祭「還幸祭」~鷹山の前を御神宝、駒形稚児、御神輿が~ 2016年7月24日(日)

祇園祭の還幸祭で鷹山の前をお通りになる駒形稚児
祇園祭の還幸祭で鷹山の前をお通りになる駒形稚児

鷹山のある三条通は還幸祭のメインルートです。まず20時過ぎに宮本組の神宝列が鷹山の前を通られます。この列には素戔嗚尊の荒御魂を護持される駒形稚児もおられます。鷹山の囃子方がお囃子を奏でてお迎えします。その後、三若、四若、錦の順に3基の御神輿が鷹山の前を通られます。

御神宝や御神輿は三条通から寺町通、四条通を経て八坂神社へ還幸されます。
駒形稚児は八坂神社でのおつとめの後、騎乗のまま原了郭まで移動され、強力に担がれて馬を降り、お召し替えのために原家へ。ここで駒形稚児は神様から人間に戻られます。

祇園祭の神幸祭、還幸祭で駒形稚児がお宿にしておられる原了郭
祇園祭の神幸祭、還幸祭で駒形稚児がお宿にしておられる原了郭

八坂神社の舞殿に3基の神輿が揃うのは23時頃。御神輿から神殿に素戔嗚尊(中御座、三若)、櫛稲田姫命(東御座、四若)、八柱御子神(西御座、錦)の御神霊を本社に還す祭典が執行されます。境内の明かりが全て消され、神官が発する「おー」という警蹕(けいひつ、けいひち)の声とともに御神霊が還られます。明かりが消されている間は撮影厳禁ですので画像はありません。

西御座(錦)の御神輿が舞殿へ
西御座(錦)の御神輿が舞殿へ