「鷹山について」~市民講座・祇園祭のよもやま話~タペストリー・祇園囃子・焼山(休山)~京都学園大学・新柳居市民講座

「祇園祭のよもやま話」~タペストリー・祇園囃子・焼山(休山)~
京都学園大学・京町家キャンパス「新柳居」市民講座
テーマ「鷹山について」
八田章 衣棚町鷹山保存会会長

2009年06月12日(金)
京都学園大学・京町家キャンパス・新柳居(京都市中京区)

衣棚町鷹山保存会会長(当時)の八田さんが、鷹山の歴史と現状について熱く語ってくださいました。参考資料は、例年、鷹山の居祭の時に配布しているリーフレットでした。衣棚町の町家に住まわれて鷹山のご神体をずっとお守りくださっている橋田さんが補佐しておられました。

八田さんの発言で印象に残ったのは「(鷹山は巡行に参加できないのに、他のご町内の山鉾が巡行しているのをみて)けなるかった」というお言葉です。「けなるい」というのは全国的な方言で、あえて標準語に翻訳すれば「うらやましい」となるのでしょうが、「けなるい」は「うらやましい」とは少し違って「頑張れば手が届きそうなのに届かない」というニュアンスが含まれます。
この講演は、八田さんご自身の「鷹山復興熱」に火を点けるきっかけになったようです。

講演の後の質疑応答で、京都学園大学の山崎先生だったと思うのですが(山本先生だったかも)、
「ご神体3人のお帽子が違う。鷹遣(たかつかい)さまだけが烏帽子で、他のお二人は侍烏帽子である。お三人が在原のご一家というのは無理があるのではないか」
と指摘してくださいました。衣棚町の町内では「鷹遣が在原行平さま、犬使(いぬつかい)が行平の弟の在原業平さま、樽負(たるおい)が行平の息子の在原遠膽さま(御町内では「トオキモ」と言い習わしてきたが、本朝通鑑では「トヲミ」)」とも言い伝えられてきましたが、この比定には無理があるようです。

市民講座のあと、八田さん、橋田さんと連れだって衣棚町に戻ったのですが、帰り道に八田さんが千吉(西村吉右衛門)家の土蔵を教えてくださいました。土蔵は京都医健の北側にあります。土蔵につながる門が衣棚町通に面して新築されています。衣棚町で一番の大店だった千吉の土蔵には鷹山の歴史が刻み込まれています。

仁和3(887)年6月29日 
在原行平の子、在原遠瞻震死 日本三代実録 巻五十

平成20(2008)年 祇園祭の鷹山の御神体など13点が京都市の有形民俗文化財に指定

鷹山の装飾品13点が京都市有形民俗文化財に指定されました。今回の指定で、京都市の指定・登録文化財は全部で465件になったとのことです。

新指定・登録文化財 第26回京都市文化財
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000039313.html(2016年4月3日現在)

今回指定されたのは、鷹遣い様、犬つかい様、樽負い様のそれぞれの御首とそれを収納する御首箱、お三方の両手とそれを収納する箱、それに焼けた鉦4点です。
御首箱に「入日記 明和七年庚寅年」とあります。明和7(1770)年頃に入手したと思われます。
鉦(かね)は元治元年7月19日(1864年8月20日)の蛤御門の変の火災で一部が溶けていますが、
「鷹山寄付 西村吉右衛門 天明丙午 林鐘吉辰 京大佛住 西村上総大掾(だいじょう)宗春作」
「鷹山寄付 渡邊徳兵衛 天明六丙午 林鐘吉辰 京大佛住 西■■■■■■」
の文字が読み取れるものがあり、天明6(1786)年に鋳造された鉦であることがわかります。

鷹山のからくりについては、京都市の有形民俗文化財「鷹山装飾品 13点(指定)」の中で、

鷹山は,蟷螂山と並んで,からくりがおこなわれていたことで有名であったが,現在の胴組自体は元治の大火による焼失以後に,会所飾り用として作られたもので,からくりの造作になっておらず,どのような仕組みであつたか知ることはできない。(p.89)

と記述されています。

文献
京都市文化観光局文化観光部文化財保護課(編) 2009,「附第26回京都市指定・登録文化財」,『京都の五山寺院:その歴史と系譜』,京都市文化財ブックス,第23集.