懸装品(装飾品)が濡れたぐらいで巡行を止めるのか?文政9(1826)年、鷹山の最後の巡行の時、何があったのか。

祇園祭山鉾連合会の公認の歴史書である『近世山鉾巡行志』の巻末の年表には、

文政九年(一八二六)
後祭 鷹山、四条東洞院で大夕立に遭い、装飾品濡れたため、この年限りで巡行不参加となる。

と書かれています。懸装品が濡れただけで巡行に参加しなくなるのは、誰が考えても不自然です。この疑問を解く鍵は、町内の古文書にありました。鷹山の御町内、衣棚町には三条衣棚町文書という町内の古文書が残っています。全部で1万点以上あるのですが、その中に『鷹山破損ニ付諸方掛合』(竪帳、文政07(1824)年5月~、三条衣棚町文書8122、同志社翻刻08-119)という文書があります。そこには

明レハ文政九年、然る處當神事十四日東洞院三條ゟ(より)大雨ニ而、山木柄切類人形とも破損致、容易ニ修復難出来相見へ候得共、先其侭例之通山仕舞取納メ遣申候 以上

と書かれています。2017年の京都市歴史資料館企画展「鷹山ふたたび ―祇園祭鷹山復興支援展―」では

大雨ニ而、山木柄切類人形とも破損致、容易ニ修復難出来

の部分だけを取り上げ、「鷹山は雨でこわれるぐらいボロかった」というニュアンスの説明がされました。鷹山の町内に住むものとして、鷹山を愛する人間の一人として、鷹山が貶められたと感じ、非常に哀しい思いがしました。

『鷹山破損ニ付諸方掛合』の表紙

『鷹山破損ニ付諸方掛合』より「大雨ニ而、山木柄切類人形とも破損」の部分

実は『鷹山破損ニ付諸方掛合』では、この文の前に町内のもめごとが延々と述べられています。簡単に言うと、衣棚南町(衣棚町の南半町)が東洞院通四条上ルの鷹山の休憩所に酒を持っていくことになっていたのに持っていかなかったというトラブルです。当時は衣棚北町(衣棚町の北半町)が鷹山を出し、南町は寄り町でした。この古文書では北町と南町の交渉を延々と述べた後、唐突にこの「明レハ文政九年、然る處當神事十四日東洞院三條ゟ(より)大雨ニ而、山木柄切類人形とも破損」という文が書かれています。

行間を読めば、文政9年、衣棚南町が鷹山の休憩所に酒を持っていかなければならないのに持っていかなかった。曳き手や車方は酒を非常に楽しみにしていたのに飲めなかった。当時は祭の時ぐらいしか酒を飲む機会が無かったでしょうから、とても残念だったと思います。それで、本来ならば休憩後に鷹山を町内まで曳いて帰らなければならないのに、巡行当日が大雨であったこともあって職場放棄した。しょうがないので町内の人が鷹山を曳いて帰ろうとしたが、素人の悲しさで、東洞院三条の角で辻回しができずに、そこで巡行が止まってしまった。その後、北町と南町のトラブルを避けるため、巡行を止めたと考えるのが自然だと思います。

「ボロ」かったのは鷹山そのものではなく、鷹山を支える町内のまとまりだったのです。

その後、元治元(1864)年、禁門の変で鷹山は御神体と鉦を残して焼けてしまいました。鷹山が焼けることにより南町と北町のいさかいの原因がなくなったともいえます。そして慶應4(1868)年に北町と南町は一つの町となって現在に至ります。(三條衣棚町文書『当町内南北合町二相成候一件書』慶應4年)

町内の分裂で鷹山が止まったのですから鷹山が復興するには町内が一つにまとまることが非常に重要だと思うのですが、今でも町内には、昔から鷹山の御神体をお守りしてこられた「衣棚町鷹山保存会」と鷹山の授与品を販売しておられる2015年設立の「公益財団法人鷹山保存会」が並立しています。

鷹山の粽(ちまき)も2種類あります。「衣棚町鷹山保存会」が御神体にお供えする粽と、「公益財団法人鷹山保存会」から一般の方に授与される粽は別のもので、もちろん外観も違います。

お祭りというのは本来は楽しいはずなのですが、二つの保存会の騒動に巻き込まれるのを避け「やりたい人が勝手にやらはったらよろし(い)」とおっしゃって、鷹山を敬遠している方もおられます。町内というのは簡単には変わらないものなので、対立に巻きこまれて住み心地が悪くなっては困ります。ハゲタカファンドのように短期決戦を挑むのではなく、時が来るのを待つというのが伝統的な知恵です。人間はいずれ死ぬのですから、世代が変われば状況も変化します。それを待つのが古来からの賢い方法なのです。

町内では2015年に鷹山の復興についての投票があり、復興に賛成する家が9軒、現状を維持するに賛成する家が8軒、棄権が4軒でした。この結果、わずか1票差で復興が決まりました。民主主義の基本原則は多数決ですが、少数意見を尊重するのも民主主義の基本です。選挙で勝ったのだから何をしても構わないというのは何か変です。わずか二十数軒しかない小さな町内なのですから、まずは良く話し合って、気持ちを一つにしなければ鷹山の復興は難しいのではないでしょうか。

鷹山の御神体は「二百年の眠りから覚めて晴れの舞台に立ちたい」と望んでおられるのでしょうが、町内の混乱を引き起こしているのは御神体の御意思に背くのではないでしょうか。

<文献>
祇園祭山鉾連合会編(1968)『近世山鉾巡行志』

<注>
鷹山は、三条通、寺町通、四条通、東洞院通、三条通という経路で巡行していました。詳細は、別紀事を参照してください。