祇園祭の粽~江戸時代は食べられるチマキだった

端午の節句が近づいてきました。「端午の節句」といえば「チマキ」、「チマキ」といえば「端午の節句」ですが、京都では「チマキ」といえば「祇園祭」という方の方が多いかもしれません。
祇園祭のチマキが他のチマキと違うのは食べられないことです。縁起物で、玄関に飾るのです。大阪のある人はチマキが食べられないのを知って「ケチくさ」っと声を上げておられましたが、祇園祭のチマキが食べられないのは京都の常識です。

ところがその京都の常識を覆すのが「鷹山の樽負(たるおい)様」なのです。祇園祭の御神体なのに、手に持ったチマキをうれしそうに食べる御姿なのです。しかも樽負様にはカラクリ仕掛けがあり、手に持ったチマキを食べる動作をしておられたと言い伝えられています。おまけに樽負様が手にしておられたのは御顔ほどの大きさの巨大チマキなのです。現在の居祭で樽負様が手にしておられるのは普通の大きさの飾りチマキなのですが、江戸時代の絵画や模型を見ると本当に大きなチマキを持っておられます。

鷹山の樽負様はチマキを食べる動作をするカラクリだったと伝えられています。
鷹山の樽負様はチマキを食べる動作をするカラクリだったと伝えられています。

ということは、祇園祭のチマキは江戸時代には食べられるチマキだったのでしょうか。

鷹山の御町内の古文書の中に「1809(文化6)年 祇園会神事当家式目(鷹山當家式目)」があります。
當家はトウケではなくトウヤとも読み、祭りの当番の意味です。普通は一年交代の輪番制で、家持(町内に家屋敷を所有する人で借家人は含まれない)が勤めました。地域によっては「頭家」と表記されることもありますし、御町内の古文書の中には「頭人」と書いているものもあります。「式目」とは平たく言えばマニュアル本です。その中に鷹山を片付けた後にチマキを振る舞うという項目があります。

十五日 山仕舞 當人外ニ手代壱人小者壱人 片附候後、粽むき出ス。小盆ニ楊枝附而出ス事。但し會処有合用る。右粽三拾把砂糖半斤、當家ゟ(より)出ス事。

15日 山の後片付け。本人のほかに手代一人、小者一人。片付けが終わった後に粽をむいて出す。小さい盆に楊枝を付けて出すこと。但し会所のありあわせを使う。この粽三十把と砂糖半斤は當家より出すこと。

お使いの環境によっては「より」が表示されません。古文書では「ゟ(より)」や「͡と(こと)」のような合略仮名や「㕝(事)」「扣(控)」のような異字も使われます。

飾りチマキを「むいて出」したり、盆にのせて楊枝を付けて出したり、砂糖を付けることはありえないので、きっと食べられるチマキを振る舞っていたのでしょう。

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後にこの項目は大きくバツ印を書いて削除されています。鷹山が休み山になったからなのか、當家の負担軽減のためなのかは不明です。

鷹山のチマキが食べられたという傍証は他にもあります。同じく御町内の古文書の中に「人形伝説一件返答書写(人形樽負殿ノ由来下書)」という1枚ものがあります。これにはチマキを「ずいぶん清浄に」という一文があります。飾りチマキも清浄ですが、食べ物だから清浄を強調しているように思えます。

どうやら食べられるチマキだったことには違いないのですが、どんなチマキだったのでしょうか。チマキといっても、道喜さんの御所粽のような葛(くず)菓子系のチマキもあれば、家庭料理でおなじみの米粉から作る団子系のチマキもありますし、鹿児島のアクマキや庄内の笹団子のようにモチ米を粉にせず米粒のままで大きな葉っぱにキッチリ包んで加熱して米粒が膨れる圧力を利用して餅状にするチマキもあります。中華チマキだったとは思えませんが、、、

とりあえず、祇園祭のチマキについて、先行研究がないか調べてみました。
まず、辻ミチ子「京の和菓子~暮らしを彩る四季の技」(中公新書,2005)です。この本の前書きによると彼女は1929(昭和4)年、京都生まれで、松原通界隈でお育ちになりました。彼女の中心的なお仕事は、京都の中世から近世、近代にかけての民衆史の研究で、多くの古文書を読み込んでこられました。そして宇治市歴史資料館館長、京都文教短大教授などを歴任されました。この新書にも歴史についての豊富な知識と京都人と京菓子に対する愛情が感じられ、ページを繰るごとに新鮮な驚きがありました。
さてこの新書では祇園祭に関係する菓子として、

  • 中村楼(八坂神社南楼門前、祇園二軒茶屋)「稚児餅」
    田楽ぐらいの大きさの餅に松葉串を打って、砂糖を少し加えた白味噌を塗り、炭火で焼き上げたもの。5本を扇状にまとめるのが本来。
  • 三条若狭屋(三条通堀川西入)「祇園ちご餅」
    白味噌餡を求肥で包み、表面にフレーク状の氷餅。5本をまとめて竹の皮の二つ折りにはさんだもの。
  • 亀屋良長(四条通堀川東入)「宵山だんご」
    味噌餡を求肥で包み、表面に氷餅。鉾型の箱に入れる。辻(2005)は月鉾と百貨店で売っていると書いているが、近年は四条傘鉾でも売っている。
  • 鍵善良房(大和大路通四条下ル四丁)「鉾餅」
    ピンクの味噌餡を「やき皮」で包む。味のついた餅を鉄板で焼いたのが「やき皮」で、長刀鉾の焼印が押される。受注分のみ。辻(2005)は鍵「屋」良房としている。
  • 柏屋光貞(東大路通松原上ル四丁目)「行者餅」
    小麦粉を水に溶いて鉄板で焼いた薄皮に山椒の効いた白味噌を塗り、皮を上下左右に折ったもの。役行者山の菓子。普通ならクレープの一種と言ってしまいそうだが、辻(2005)は「麩の焼き風の菓子」と説明している。
  • 大極殿本舗(高倉通四条上ル)「吉兆あゆ」
    調布。求肥を芯にして、小麦粉と卵と砂糖を混ぜて焼いた皮で巻いたもの。占出山(鮎釣山;神功皇后が鮎を釣る風流)の菓子。御神体が女性なので占出山の真松は黒松(雄松)だそうです。
  • 亀廣永(高倉通蛸薬師上ル)「したたり」
    丹波糸寒天と黒砂糖を使った琥珀羹。今は棹物。菊水鉾の茶席で供される。

の七つが挙げられています。
ところが肝心の祇園祭のチマキについては、蘇民将来の伝説から説き起こし、

蘇民将来は祇園社全体の護符であって、祇園社は茅の輪を古来からの神饌である粽にかえて、「自らのけがれを祓い、神のみ心にかなう生活をする心のよすがにするように」と頒布することにした。でもこの粽は笹ばかりで食べられない。玄関先などに吊す厄除けである。各鉾町では、寄町から地口米の寄進を受けているので、お祓いを受けた笹ばかりで作った粽を寄町へ頒布するのが習慣になった。さらに山鉾の巡行中に、囃子方が鉾の上から粽を投げて頒布する「ちまき投げ」が行われてきた。
現在、事故防止のためにちまき投げは行われなくなったが(略)

と書くのみで、祇園祭のチマキが食べられた可能性については一言も触れておられません。京都の和菓子についてオリジナルの文献にまで遡って調べておられ、キッチリ考証しておられるのですが、祇園祭のチマキについては文献にもあたっておられません。祇園祭のチマキは菓子ではないと信じておられるので、この「京の和菓子」という書籍で考察すべき対象ではなかったようです。祇園祭のチマキは食べられないというのは、辻ミチ子さんほどの人にとっても疑う余地のない「京都の常識」だったのでしょう。

次に、渡部忠世, 深澤小百合「もち(糯・餅)」(法政大学出版局, 1998)です。彼は1924年に神奈川県で生まれ、京大農学部を卒業され、京大農学部などで作物学、特に熱帯農学を研究され、東南アジア研の所長も務められました。この本が出版されたときは退官して名誉教授になっておられました。
祇園祭のチマキについては

ちまきはチガヤ(茅)、アシ(葦)、マコモ(真菰)、ササ(笹)などの葉で、モチ米やウルチ米粉の餅を包み、蒸したり煮た食べ物である。すべてがモチ米の食品とはいえないが、その成立の当初の頃は大部分がモチ米を素材としていた。
ちまきの名は古くに「茅巻」と書くように、チガヤで巻いたことに由来するが、今日では主にササの葉を用いる。カヤはその旺盛な繁殖力から神霊が宿る植物、邪悪を祓う草と信じられ、それで巻いたちまきは災厄疫病を祓う食べものとされてきた。京都の八坂神社で行われる夏の祇園祭では、近年まで山鉾巡行の際に鉾の上から厄除けのちまきが撒かれていた。北山の花背産のチマキザサで巻いたこのちまきは、市販されるようになった今日でも魔除けとして玄関に掲げる家々が多い。

と記するのみで、渡部・深澤(1998)でも食べ物としては扱われていません。この後、「延喜式」の「三三大膳下」の「五月五日節料」の項を引用して糯米と青蒋(菰)がチマキの材料であったことを示します。また「和名類聚抄」の「和名 知萬木(チマキ)」の項を引用して、菰の葉の裏でコメを包み、灰汁で煮て燗熟させるという今の鹿児島のアクマキや庄内の笹団子と似た方式で作られた中世のチマキを紹介しています。続けて飾りチマキの例として「拾遺和歌集」の春宮太夫道綱母の

五月五日、ちひさきかざりちまきを山すげのこにいれて、
ためまさの朝臣のむすめに心ざすとて
心ざし ふかきみぎはに かるこもは ちとせのさ月 いつかわすれん

を挙げています。
食べられるチマキについては、「本朝食鑑」と「名菓秘録」という江戸時代の文献から

  1. 餅をマコモで包んだチマキ
    蒸した糯米を搗いて餅にし、マコモの葉で巻いたもの
  2. (江戸時代の)道喜粽、笹粽
    ウルチ米粉の細長い団子をクマザサで包んだもの
    (現在の道喜粽はクズで作る)
  3. 飴チマキ
    モチ米の餅を藁(ワラ)で包んで蒸した黄白色の飴色のチマキ
  4. 朝比奈チマキ
    サザンカの根の灰汁にモチ米を3日3晩浸してから蒸して搗いた餅で、透明な琥珀や瑪瑙(メノウ)色

の4種類を紹介し、

このように江戸期には、ちまきはモチ米を搗いた餅やウルチ米粉の餅などと種類も多様化し、包む葉もチガヤ、マコモ、ササの他いろいろな葉が使われるようになっていった。

とまとめておられます。書名が「もち(糯・餅)」ですのでウルチ米粉から作ったチマキも餅に分類しておられますが、一般にはウルチ米粉から作るのは餅ではなく団子と呼ばれると思います。

渡部先生は1924(大正14)年に神奈川県で生まれたのですから、京都に来られたのは1941年頃でしょう。日本がアメリカ合衆国などを相手に戦争していた時代で、1940年には国民精神総動員本部が「ぜいたくは敵だ!」という看板を日本中に建て始めたそうです。1942年には食糧管理法が施行され、米穀類が配給制になりました。1943年から1946年までの4年間は祇園祭の山鉾巡行は行われませんでした。
その頃、関東地方から京都に出てきた渡部青年はいつも空腹感を覚えていたことでしょう。そんな腹ペコの渡部青年が祇園祭のチマキを初めて見た時は「美味しそう。食べたい」と思ったに違いありません。ところがそれは飾りチマキで食べられないと知った時の驚きと悲しみは察するに余りあります。それ以後、祇園祭のチマキは食べられないことに何の疑いも持たないまま、この本を書かれたのかもしれません。

なお江戸時代の菓子については、渡部・深澤(1998)では「(古今新製)名菓秘録」(1862(文久2)年)を参考にしていますが、鈴木晋一, 松本仲子「近世菓子製法書集成1,2」(東洋文庫,2003)は、江戸時代の主要な菓子製法書を翻刻した上で、「名菓秘録」は「古今新製菓子大全」(1840(天保12)年)、「鼎左秘録」(1852(嘉永5)年)、「菓子話船橋」(1841(天保12)年)の三書の本文をつきまぜて、配列を無茶苦茶にしたもので、原本の書き写しに過ぎない。それなのに原本を写す際の書き誤り、ルビの間違い、脱落などが多い。「名菓秘録」は「江戸時代最大、最高の菓子書」と言われていたこともあるが、決してそのような書物ではないと鈴木・松本(2003)は指摘しています。

また「名菓秘録」の原本の一つの「古今新製菓子大全」も「古今名物御前菓子図式」(1761(宝暦11)年)と「古今名物御前菓子秘伝抄」(1718(享保3)年)の単純な合本であると鈴木・松本(2003)は述べています。
実際に「名菓秘録」では「内裏粽」が2-51に「御所粽」が1-122に別の項目として立てられています。どちらもウルチ米粉をできるだけ細かくして作る団子です。内裏粽は絹のふるいを通し、御所粽は羽二重のふるいを通すだけの違いです。普通の辞書であれば項目をまとめるでしょうが、単純な合本ですので別の項目になるわけです。

ちなみにこれらの菓子書の中で一番古い「古今名物御前菓子秘伝抄」(1718(享保3)年)では、チマキは、


  1. ウルチ米の粉を湯でこねて、マコモか笹の葉で巻き、ゆでる。モチ米を使うこともある。
  2. 内裏粽
    ウルチの上白米をできるだけ細かく粉にし、湯でこねて大きくまるめ、ゆでて水を切り、臼で搗いた後、少しずつとって笹の葉で巻き、ゆでる。
    別の製法として、洗った上白米を少し乾かして粉にし、絹のふるいを通し、水で少しかためにこね、少しずつとって平たくし、蒸籠で蒸す。蒸しあがったのを臼で搗き、少しずつとって笹の葉でしっかり包み、ゆでる。
  3. 朝比奈粽
    洗った上白米を椿の灰汁に5時間ほど浸し、蒸籠で蒸して餅にすると黄色くなる。少しずつとって藁しべで包み、ゆでる。

の3種類が紹介されています。御所粽は粒を細かくするのがポイントのようで、道喜さんは米では細かさに限界があると考え、より細かい葛(くず)を原料にするようになったのでしょう。

話を祇園祭のチマキに戻します。

もう少し上の世代では、祇園祭のチマキは食べられたと書いている人もいます。一番具体的に書いてあるのは田中緑紅「祇園会余聞」(京を語る会,1957)で、「この粽には昔はシンコが入っていた」という記述があります。田中緑紅は、1891(明治24)年に京都の九条家の御典医の家に生まれ、京都一中(今の洛北高校)に進まれて、郷土史家としてたくさんの書籍を出されました。「昔」といってもいつの頃なのか不明なのが残念ですが、「シンコ」と書いてある文献はこれだけです。管見では。

田中緑紅以外にも2人ほど「江戸時代は祇園祭のチマキも食べられた」と書いておられる方がいますが、あくまで伝聞で、具体的な根拠は示されていませんし、どのようなチマキだったかの記述もありません。

私はここで行き詰ってしまいました。それで発想を変えて、日本各地のチマキについて調べてみました。

一番古いタイプのチマキは、「和名類聚抄」の「和名 知萬木(チマキ)」と同じチマキ、つまり大きな葉でモチ米を包み、灰汁などで煮て、モチ米が膨張する圧力で餅を作る方法です。今でも鹿児島ではアクマキ、庄内地方では笹団子として作られています。
このタイプのチマキの良いところは最小限の道具で大量に作れることです。事前にモチ米を笹などで巻いておいて、必要になれば大釜で煮るだけです。煮る時間だけ気にすればよいので日頃は料理をしない男衆でも簡単に作れそうです。

祇園祭で男衆だけで作る食事としては、御神輿の弁当が有名です。現在、祇園祭の3基の御神輿のうち、中御座の神輿を担いでおられる三若(三条台若中)は「祇園祭中御座みこし弁当」を男衆の手で作っておられます。竹の皮の堤の中にゴマ塩ご飯の上に梅干とタクアンがのったシンプルな弁当なのですが、とても美味しいのです。「御神輿渡御の砌り、供奉の役員並びに輿丁」が食べる「昔ながらの食事」で、「精進潔斎した氏子の男衆のみ」で作り、「疫病祓い、安産のまじない」として喜ばれているそうです。

ご飯の炊き方ですが、現在は水に浸した米を炊きあげて蒸らす「炊き干し法」が主流ですが、江戸時代は湯に米を入れて炊く「湯炊き」が多かったそうです。湯炊きだと30分ほどでご飯が炊けるそうです。

餅はチマキと似ていますが、餅をつくのには時間がかかります。奈良市の「中谷堂」(三条通もちいどの(餅飯殿)南西角)の高速餅つき(奈良県上北山村の伝統)が有名ですが、餅をつく前にモチ米を蒸す必要があります。餅をつく杵も、最初は千本杵、次に縦杵(月でウサギさんが持ってるタイプの杵)、そして現在の横杵と変化していったそうです。横杵が発明されるのは江戸時代だそうですが、まだ調べ切れておりません。

祇園会入払帳	 1783(天明3)年~享和3(1803)までの31年分 表紙
祇園会入払帳  1783(天明3)年~享和3(1803)までの31年分 表紙

再び話を祇園祭のチマキに戻します。

鷹山の御町内の古文書の中に「祇園會入彿帳」という出納簿が残っています。
元文4(1739)年~天明2(1782)年までの44年分、
天明3(1783)年~享和3(1803)年までの31年分、
文化4(1807)年~文化11(1814)年までの8年分
の3冊があります。他に天明元(1781)年の「鷹山家台修復(入用帳)」、文政2(1819)年の「屋根入用扣」といった大修理の時の個別の出納簿も残っています。

入払帳は、出納金額と項目の羅列でなかなか手が回らなかったのですが、最近、情報の宝庫であることに気付きました。例えば、寛政11(1799)年未6月の払い方の先頭に

一 四貫六百文 笹屋昌春 粽百三十八把

とあります。

入払帳

笹屋とは、東寺のどら焼きで有名な笹屋伊織さんの一門でしょう。
あるいは、元文5(1740)年申6月の払い方には、

一 四百七拾弐文      笹屋近江 粽廿把
一 壱〆七百七拾四文 同断 粽屋道和 七拾五把

とあります。今でも道喜ちまきは有名ですが、貞享3(1686)年に黒川道祐が著した雍州府志

角黍(チマキ) 烏丸土御門南渡邊氏道喜道和兩家製造、(略)以篠葉裹米粉團、以藺殻纒之、

とあり、角黍(チマキ)は、烏丸土御門(現在の上長者町通)南にある渡邊道喜と道和の両家が製造していました。米の粉からつくる団子でした。

あるいは「京羽二重大全:明和新増」の三にも

粽所
烏丸通下長者町上ル 川端道喜
烏丸四条角 津田近江
新町押小路下ル丁 川端道和

の3店が挙げられています。

鷹山が粽を粽屋川端道和や笹屋津田近江から購入していた事実は確認できましたが、そのチマキが飾りチマキだった可能性もあります。
鷹山の入払帳で1790(寛政2)年のところを見ると

一 弐〆八百八拾文 ささや昌春 粽七十弐把
(略)
一 五百廿文 もち 百

となっています。粽1把が40文、餅1つが5.2文です。林(1994)は、川端道喜家に伝わる文書をまとめた論考の中で、餅の大きさについて「一合以上が餅で、一合未満を小餅としている」とし、粽については「一把は十本」と述べています。飾りチマキ1把が一合餅8つ分の価格という可能性は低いですから、鷹山が笹屋近江昌春から買っていた粽は「食べられる粽」と判断して良いでしょう。

それに加えて、「御粽司」と名乗っておられて日本中に名の通ったお店に「中身は不要なので葉っぱだけ下さい」と飾りチマキを買いに行く勇気は、私にはありません。

鷹山は食べられるチマキを、粽屋川端道和や笹屋津田近江から購入していたのです。それは米の粉からつくる団子系のチマキでした。粽を買う店は道和や笹屋近江以外にも何店かあったようです。店名と本数、価格については、時間をかけて整理したいと思います。

2015年に鷹山の宵山の御囃子が復活し、チマキなどの授与も行われるようになりました。この年には食べられるチマキとして、「伊勢源六たちばなや(三条通堀川東入)」さんが外郎(ういろう)系の食べられるチマキを鷹山で販売してくださいました。江戸時代の団子、田中緑紅が書いているシンコ、そして外郎も米粉系ですから、たちばなやさんの選択は大正解だったわけです。
ところで「たちばなや」さんの「わらび餅」は特に美味しいです。川端道喜さんが米粉系の団子チマキから葛系チマキに乗り換えたのですから、たちばなやさんも「わらび餅」系のチマキに挑戦されても良いかもしれません。

京都ではお客様に振る舞う料理を家庭で作らずに仕出し屋さんにお願いすることが多いです。正月の餅も同じように外注することが多く、年末になると市内のお餅屋さんの店先に

餅は餅屋で

というポスターが張り出されます。江戸時代の祇園祭のチマキも同じで

チマキはチマキ屋で

だったようです。

江戸時代、鷹山は食べられるチマキを粽屋さんに外注していました。これは祇園祭の時は特に火の用心をしなさいという御触書(館古531_8069、年未詳 6月「鷹山町中口達(神事中町内火之元用心、花火線香等禁止云々)」など)にも合致します。御町内で火を使って粽をゆでると火事の危険がありますが、専門のお店から出来上がった粽を購入するのであれば御町内で火を使わなくて済みます。

あれやこれや書き連ねて長くなってしまいましたが、江戸時代の鷹山は、粽屋川端道和、笹屋昌春などのチマキ専門店から100把程度の食べられる粽を購入していました。江戸時代の祇園祭のチマキは食べられるチマキでした。大阪の人に「ケチくさ」などと言われないチマキだったのです。

江戸時代の食べられるチマキが、いつ頃から食べられない飾りチマキに変化したのか、あるいは山鉾の上から粽を投げる風習はいつ頃から始まったのかなどの点については今後の課題とさせていただきます。

<文献>
鈴木晋一, 松本仲子 2003「近世菓子製法書集成1,2」, 東洋文庫, 平凡社.
田中緑紅 1957 「祇園会余聞」, 京を語る会.
辻ミチ子 2005 「京の和菓子~暮らしを彩る四季の技」, 中公新書, 中央公論新社.
林淳一 1994 「江戸期の宮廷と菓子—川端道喜の文書からみて—」, 『和菓子』創刊号, 虎屋文庫.
松本章男 1988 「京都で食べる 京都に生きる」,新潮社.
渡部忠世, 深澤小百合 1998 「もち(糯・餅)」, 法政大学出版局.

「雍州府誌」黒川道祐 1686(貞享3年)
「古今名物御前菓子秘伝抄」梅村市郎兵衛 1718(享保3年)(鈴木晋一, 松本仲子「近世菓子製法書集成1,2」(東洋文庫,2003))
「京羽二重大全:明和新増」百足屋次郎兵衛(編) 1768(明和5年)(立命館大学 ARC古典籍ポータルデータベース 明和新増/ 京羽二重大全 三 50/67頁
「古今新製名菓秘録」1862(文久2年)(鈴木晋一, 松本仲子「近世菓子製法書集成1,2」(東洋文庫,2003))

三条衣棚町文書「祇園会入払帳」元文4年6月吉日(1739)~天明2年(1782), 横帳, 館古531-8096.
三条衣棚町文書「鷹山家台修復」天明元年6月吉日(1781), 横帳, 館古531-8102.
三条衣棚町文書「祇園会入払帳」天明3年6月吉日(1783)~享和3年(1803), 横帳, 館古531-8104.
三条衣棚町文書「祇園会入払帳」文化4年6月吉日(1807)~文化11年(1814), 横帳, 館古531-8116.
三条衣棚町文書「祇園会神事当家式目」文化6年(1809), 竪帳, 館古531-8117.
三条衣棚町文書「屋根入用控」文政2年(1819), 横半帳, 館古531-8120.
三条衣棚町文書「[人形樽負殿ノ由来下書]」年月日不詳, 状, 館古531-8137.
三条衣棚町文書「鷹山町中口達(鷹山町 神事中町内火之元用心、花火線香等禁止等)」6月, 状, 館古531-8069.

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