鷹山の鷹狩(芹川行幸)は嵯峨(右京区)?それとも鳥羽(南区)?

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 鷹山は鷹狩を風流(ふりゅう;モチーフ)とする祇園祭の曳山です。黒塗りの豪華な屋根の付いた曳山で、鷹遣(たかつかい;鷹匠)様、白黒ブチのダルメシアンのような猟犬を引いた犬飼(いぬかい;犬使い)様、そして背中に樽を背負い、大きなチマキを手に持った樽負(たるおい;ロジスティクス、 携行食ration担当)様の3体の御神体人形と、祇園囃子を奏でる囃子方を乗せて都大路を巡行していました。鷹山は、後祭の最後尾の大船鉾の直前を行く鬮(くじ)取らずの曳山でした。樽負様にはからくり仕掛けがあったとされていて、京都市の調査でも

鷹山は,蟷螂山と並んで,からくりがおこなわれていたことで有名であったが,

との記述があります。江戸時代の人々には、主人に隠れるようにしてチマキを食べるユーモラスな樽負様が大人気だったようで、鷹山ではなく樽負山と呼ばれることもありました。
 ところが1826(文政9)年の巡行で大雨にあい破損してしまったことを理由に翌年から休み山となり、以後、現在まで190年もの間、衣棚町(三条通の室町と新町の間)の町家(ちょういえ;御町内が所有する家屋)で御神体などをお飾りする居祭(いまつり)を続けてまいりました。
 近年、復興の機運が高まり、2014年には鷹山の囃子方が結成されました。現在は40名以上の囃子方が熱心に稽古を積み重ねておられます。また2015年には一般財団法人鷹山保存会が設立され、2016年1月には公益認定を頂戴し、公益財団法人鷹山保存会となりました。2015年の宵々山や宵山では、鷹山のお囃子を聞いていただいたり、チマキなどの授与品をお分けすることができました。このように鷹山は復興に向けて着実に歩んでおります。
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 御町内では、この鷹狩は886(仁和2)年に光孝天皇(仁和の帝)が芹川野へ行幸された時のものだと言い習わされてきました(明倫誌)。また御町内には江戸時代の古文書が1万点余り残されて、今は京都府立総合資料館の三条衣棚町文書として整理保存されています。その中に鷹山の鷹匠を中納言(在原)行平卿とした1782(天明2)年の「鷹山人形・飾付一式覚」があります。当時の朝廷の公式記録「三代実録」によると、在原行平が仁和の鷹狩に随行しておられたことがわかります。行平様は鷹狩の名手として知られています。

 では、この芹川は、どこにあったのでしょうか?

三代実録の仁和二年十二月の項には

十四日戊午。行幸芹川野。

とあるだけで、どこの芹川とも書かれていません。

ところが同じ「三代実録」元慶六(882)年一二月二一日の項(国会図書館 近代デジタルライブラリー 三代実録 巻42)に

山城国葛野郡嵯峨野、充元不制、今新加禁。樵夫牧竪之外、莫聴放鷹追兎。(略)紀伊郡芹川野・木幡野、(略)天長年中、既禁従禽。

とあります。これから、葛野郡(今の右京区など)嵯峨野が新たに禁猟とされる一方、紀伊郡(今の南区など)芹川野、木幡野は従来から禁猟であったことがわかります。
つまり、三代実録では、芹川野といえば紀伊郡の芹川野であり、嵯峨野とは完全に別物だったのです。

 歴史的事実としては、芹川行幸(886年)は紀伊郡の芹川(南区鳥羽)であったことに疑問の余地はありません。ところが今では芹川が嵯峨野にあったと思う人が多数派になっています。その経緯は次の通りです。

 仁和の鷹狩は御撰和歌集や伊勢物語にも取りあげられています。御撰和歌集(951年頃成立)では、
巻十五
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[詞書]仁和のみかと、嵯峨の御時の例にて、せり河に行幸したまひける日
在原行平朝臣
嵯峨の山みゆきたえにしせり河の千世のふるみちあとは有りけり

01076
[詞書]おなし日、たかかひにて、かりきぬのたもとにつるのかたをぬひてかきつけたりける/行幸の又の日なん致仕の表たてまつりける
在原行平朝臣
おきなさひ人なとかめそ狩衣けふはかりとそたつもなくなる

となっています。伊勢物語でも詞書は違いますが、同じ2首が取り上げられています。

この「嵯峨の山」の句が原因となって、芹川が鳥羽ではなく嵯峨野だったという解釈が生まれました。この句の「嵯峨の山」というのは嵯峨天皇(786 – 842;在位809 – 823;陵墓は嵯峨山上陵;右京区北嵯峨朝原山町)ご自身のことを指し、嵯峨野という地名を指すのではないという解釈が本来なのですが、平安時代末には、「嵯峨の山」を嵯峨野という地名と解釈する人がでてきました。

「芹川は嵯峨野にあった」と考えた人の中で、後世に大きな影響を与えた最初の歌人は藤原良経(よしつね;九条良経;1169(嘉応元)年 – 1206(元久3)年)でした。彼は藤原家の本流の一人で摂政・関白まで上りつめました。能筆で、歌人としても有名でした。そんな良経が

芹川の波もむかしにたちかへりみゆき絶えせぬ嵯峨の山風(秋篠月清集;1204年成立)

と詠んでしまいました。鳥羽の芹川は鴨川と宇治川が合流するあたりですから山は遠く、どちらかというと「山風」よりは「川風」です。明らかに「嵯峨の山」を「嵯峨野」と取り違えたのです。
 さて、良経の和歌を指導していたのは藤原定家(1162-1241)らの著名な歌人です。定家も関白(?)に面と向かって「嵯峨の山は山ではなく、嵯峨天皇のことです」と言い難かったのか、この歌は訂正されることなく秋篠月清集に載ります。良経が間違え、定家が黙認したのがきっかけとなり、「芹川は嵯峨野にあった」とか「嵯峨野には千代の古道がある」と思う人が多数派になっていきます。
 
 その後、江戸時代初期の京都の地誌「雍州府誌(黒川道祐;1682年から1686年にかけて出版)」でも「芹川=嵯峨野」説が主流として紹介されます。

 そして現在では、嵯峨野に「千代の古道」という史跡があります。

 このように見てくると「嵯峨野の千代の古道は間違いだ」と思われるかもしれませんが、私は歴史的事実と文学的世界観は分けて考えるべきだと思います。御撰和歌集(951年頃成立)の在原行平の和歌が元になって「芹川」や「千代の古道」という歌枕が成立し、藤原(九条)良経の秋篠月清集(1204年成立)の和歌が「芹川」や「千代の古道」に「嵯峨野」というイメージを付け加え、それに基づいて次々に和歌が作られていったのですから、文学的には「嵯峨野には芹川と千代の古道がある」と言って間違いでないのです。

 そもそも在原行平の

さがの山みゆき絶えにし芹川の千代の古道あとはありけり

の和歌が人間の誤解を招く構造になっています。一般に文章を理解するときは、文字から意味を理解しようとするbottom upの処理と、知識や文脈から文字を読み取ろうとするtop downの処理が並列的に行われます。この和歌の先頭の「さがの山」という文字列を読んだときに、「嵯峨野」という地名と「嵯峨天皇」という人名の二通りの解釈が頭の中にpop upするはずです。しかし嵯峨野の方が嵯峨天皇よりも圧倒的に有名で連想価が高いですから、とりあえず嵯峨野という地名を仮定して続きを読もうとします。そのまま最後まで読んでも大きな矛盾は感じられません。それでこの和歌は嵯峨野という地名を詠み込んだ歌と誤読されてしまうのです。
 誤読を防ぐためには

芹川の最後の御幸は嵯峨の山、千代の古道あとはありけり

のように「御幸」の後に「嵯峨」を持って来れば良いのです。こうすれば「御幸」という単語で「天皇」というnodeがactiveになり、「天皇」につながる「嵯峨天皇」もactiveになり「嵯峨野」と誤読される可能性は減ります。もっとも、この和歌だと後世まで歌い継がれることは無かったでしょう。

 というわけで、1782(天明2)年に御町内の人々が鷹匠を在原行平とされた時点では、芹川行幸は鳥羽ではなく嵯峨野で行われたというのが一般の人々のイメージだったのでしょう。

 しかし、鷹山の風流として仁和2年の芹川行幸を選ばれたのは何故か、いくら鷹狩の名手とはいえ高齢(70歳)の在原行平を御神体にしたのは何故か、御撰和歌集はともかく伊勢物語で「おほやけの御けしきあしかりけり。おのがよはひを思ひけれど、若からぬ人は聞きおひけりとや」と光孝天皇のご機嫌を損じた場面を風流にしたのは何故か、という疑問は解決されていません。

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