戦国時代の鷹山@河内将芳「絵画史料が語る祇園祭  戦国期祇園祭礼の様相」淡交社

祇園祭の代表的研究者の一人、河内将芳先生の最新刊です。

版元.comによる紹介を引用させていただきます。

河内将芳「絵画史料が語る祇園祭 戦国期祇園祭礼の様相」淡交社

大船鉾復興、後祭の再興で関心を集める祇園祭の歴史。現代の祇園祭の源流になる戦国時代の祇園祭の史料からその実態に迫る。
〈大船鉾復興、後祭の再興など、近年も変化し続ける祇園祭。時代の流れに適応しつつ継承される戦国時代の息吹〉

数多くある洛中洛外図屏風のうち現存最古といわれる「歴博甲本洛中洛外図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)、また国宝に指定されている「上杉本洛中洛外図屏風」(米沢市上杉博物館蔵)、また「日吉山王・祇園祭礼図屏風」(サントリー美術館蔵)の三点の屏風は、描かれている内容がとりわけ文献史料と重なる点が多い絵画史料です。本書は、その三点の絵画史料から祇園祭礼部分の拡大写真を大きく載せ、それを文献史料と照らし合わせて解説し、戦国時代の祇園祭の様相に迫ろうとするものです。
ISBN: 978-4-473-04037-4
定価:本体 1,800円+税
判型:A5

さすが淡交社。まず写真が美しいです。もちろん内容も充実しています。そして何よりも文章が易しくて読みやすいです。

私たちの鷹山についても丁寧に調べてくださっています。まず、延宝4(1676)年の「日次紀事(ひなみきじ)」によると、後祭の「くじとらず」は、先頭の「橋弁慶山」、九番目の「鷹山」、最後十番目の「大船鉾」の3つであること。当時、北観音山と南観音山は隔年で巡行に参加していたこと。

<サントリー本の鷹山は曳山だったのか?>
次に16世紀頃に描かれたサントリー美術館蔵「日吉山王・祇園祭礼図屏風」に鷹山が描かれていて、他の山と同じく松が「老松」であり、山が「二ツ山」であることを示しておられます。このサントリー本に描かれた後祭の山鉾ついて「ちなみに、この八幡山と考えられる山には、八反祐太郎氏が指摘されているように、車がついていることがわかる。(略)戦国時代の十四日山々(後祭)のなかにすでに曳山があったことを伝える貴重な手がかりとなろう」(p.113)と書いておられます。
サントリー本では、鷹山の足元は家屋に隠れて見えませんが、鷹山の上には粽を食べる樽負様、鷹を手にした鷹遣様、犬を連れた犬使様の三体の人形の他に、少なくとも六人の人間が乗っています。浄妙山にも人間が一人乗っているように見えますが、六人も乗っている山は他にありません。当時の絵画技法では縮尺を揃えることをしませんので、大きな曳山や曳鉾も小さな舁山も画面上では似たような大きさになりますが、山の上に乗っている人間の数からみると、鷹山も曳山だった可能性が高いと思います。

この本を読んで何よりもうれしかったのは、「後祭の山々のうち、鷹山(鷹野山)が現在巡行していないのは、幕末の火災にみまわれたことが影響している。それに対して、鷹山と同様、幕末以来ながらくその姿がみられなかった船鉾(大船鉾)が2014年に再興されたということをふまえるならば、鷹山が再興される可能性はけっして小さくない。後祭は、近い将来、戦国時代の姿に近いものとなるのかもしれない」(p.163)と書いてくださっていることです。

他の山鉾と同じく鷹山も江戸時代に豪華になり、鷹山が巡行しなくなる直前は、黒漆塗で破風裏が金という立派な屋根をもつ曳山でした。当時の絵画(横山華山、冷泉為恭など)や雛形(模型;三嶋蔵)、それに三条衣棚町文書という鷹山御町内の江戸時代の文書1万点以上も残っております。近世の山鉾の模型というのは、案外、研究が進んでいない分野に思えます。次は近世の祇園祭についてまとめていただければ、鷹山を復興する上で非常にありがたいです。

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