八章(はち・あきら)「鷹山の中納言行平公」(文芸社)が発売されました

 祇園祭の休み山・鷹山のご神体である中納言・在原行平公を主人公にした大きな物語が描かれています。八章さんは鷹山について大きな世界観をお持ちです。「水底の歌―柿本人麿論」などを著した哲学者の梅原猛のような雰囲気があります。

1) 鷹山の鷹は正面を向かずに鷹匠の方に向いているのは何故か?

 最近、二条城や各地の動物園などで鷹狩りの実演があります。実際の鷹狩りでも鷹狩りの写真でも同じなのですが、鷹は獲物を狙うわけですから鷹も鷹匠も同じく獲物がいる方向に視線を向けます。しかし鷹山の鷹は顔を鷹匠側に向け、正面には鷹の顔ではなく尾が来るように飾られます。まるで鷹が鷹匠のペットのようです。「鷹山の鷹は獲物を狙う鷹ではなく平和主義の鷹なのだ」というのが八章さんの説です。

2) 鷹山が行平公の鷹狩りをモチーフにしたのは何故か~奨学院(在原行平公が創建された諸王、同族子弟教育のための大学別曹)と鷹山のある衣棚町のつながり

 私は「鷹山の歴史と未来を語る会」の第一回で祇園祭山鉾保存会連合会の吉田理事長のお話を伺って初めて知ったのですが、祇園祭の山鉾の風流(ふりゅう;内容、趣向)というのは現在のように固定されたものではなくて、場合によっては「去年までのは飽きたから、今年は新しいのにしよう」という程度の柔軟なものでした。実際、「鬮罪人(くじざいにん)」という狂言には、祇園祭の山鉾で新しい演目をだすことになり、クジ引きで罪人とそれを責める鬼の役を決めるというシーンがあります。これも風流が本来は柔軟なものであったことの証左のひとつです。
 さて鷹山が行平公の鷹狩りをモチーフに決めた理由は何なのでしょうか。八章さんは、その理由を奨学院(在原行平公が創立された学校)と在原行平公の住居の位置関係で説明しようとしておられます。
 奨学院は千本通三条のあたりにありました。奨学院跡という石碑が千本通三条北東角のコンビニエンスストアのところに建っています。在原行平公の住居は鴨川の近くにありました。ちなみに行平公の弟で「伊勢物語」でも「日本三代実録」でも美男子のプレイボーイとして名高い(?)在原業平公の住居は間之町通御池下ルにありました。在原業平邸址の石碑もあります。
 行平公がご自宅から奨学院まで鷹山のある衣棚町(三条通室町)を通っておられたご縁もあって、行平公の鷹狩りを祇園祭の風流として選んだのではないかというのが八章さんの説です。

3) 行平公の須磨配流と藤原氏の台頭

 在原行平公の時代は藤原氏が台頭してくる時代でした。応天門の変で伴大納言や紀氏が追い落とされるなど藤原氏以外の貴族は冷遇されていました。在原氏も平城天皇の子孫ではありましたが冷遇され須磨に流されました。そのあたりの事情を八章さんはロマンチックに書きこんでおられます。

 鷹山と行平公に対する八章さんの熱い思いがこの本から伝わってきます。私自身は、八章さんのお考えの半分も理解できていません。この本は、見かけは読みやすそうですが内容は深いです。繰り返し拝読しようと思っております。

http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-15129-8.jsp

「鷹山の中納言行平公」


文芸社による紹介

 祇園祭の鷹山の在原行平公の人物像を探る! 百人一首の名歌「立ち別れ 因幡の山の 峰におふる まつとし聞かば 今帰りこむ」の作者、在原行平の人物像を、弟の業平、須磨の海女、祗園祭の鷹山山鉾に乗る従者の樽負、犬飼らと共に鮮やかに描き出す。平安京時代の雰囲気を彷彿させるイラスト多数を配した詩情あふれる作品。【内容】翁さび/着物と庭舞台/宴/須磨/塾/帝