1977(昭和52)年 山鉾の上からの粽投げが自粛される

前年(1976年)に囃子方の投げたチマキが観客の目に当る事故があり、この年から山鉾上からの粽投げが自粛されました。いったん復活したのですが、再び事故があり、1983(昭和58)年より全面自粛となりました。(函谷鉾の囃子方のブログ、http://blogs.yahoo.co.jp/kobayan717/32508790.html)

チマキ投げが盛んだった頃の囃子方の証言が、京都市立芸術大学の伝音アーカイブズ「祇園囃子アーカイブズ」に採録されているので、引用させていただきます。

放下鉾の囃子
http://jupiter.kcua.ac.jp/jtm/archives/resarc/gionbayashi/houkaboko/9.html

囃子方にとってかつて、巡行中に鉾の上から粽をなげるのが大きな楽しみであった。「粽がほうれるから、囃子方になった」という人も多かった。大体1人あたり100~200束をもちこみ、中には300、600束という人もいた。粽は全体で数千束という有様であった。粽をなげることに夢中になるあまり、囃子がとまるといったことはざらであった。

南観音山の囃子
http://w3.kcua.ac.jp/jtm/archives/resarc/gionbayashi/minamikannonyama/9.html

以前は、囃子方にはまた、粽をなげる楽しさがあった。粽は桶に水をいれて、1晩つけておく。そうしておいて重みをつけて、遠くにとばすのである。名刺をつける人もいたという。なげている間は、他の人に囃子をたのむ。道路の反対側のどれだけ高い階になげられるかをきそった。お目当ての女性にむけてほうると、他の人がとってしまい、「ちゃう!」とさけんだこともあったという。一方、おばあちゃんが手をあわせていると、あげてしまう気持ちになった。

山鉾に乗っている囃子方が25人として一人が200把を持ち込んだら合計5000把になります。ただでさえ狭い山鉾ですから、さぞや大変な状況だったのでしょう。

ではチマキ投げはいつごろから始まったのかというと、八反(2010)は、天保年間(1830~1844年)以降の絵画の中にチマキ投げが登場すると述べています。

例えば、冷泉為恭筆「祇園祭礼絵巻」(國學院大學博物館蔵、嘉永元(1848)年)では、函谷鉾、放下鉾、北観音山の3つの山鉾からチマキが投げられています。鷹山の場合は、チマキをヒモのようなもので吊るして下の人に渡している様子が描かれています。それ以外の山鉾ではチマキは描かれていません。

冷泉為恭の「祇園祭礼絵巻」が描かれたのは1848(嘉永元)年で、鷹山が最後に巡行した1826(文政9)年から20年以上たっていますので、巡行中の鷹山から観衆に粽が渡されたか否かを断定するのは難しいです。

<参考>
八反裕太郎 2010 「祇園祭礼図の系譜と特質」(植木行宣, 田井竜一(編)『祇園囃子の源流』, 岩田書院)
冷泉為恭 1848 「祇園祭礼絵巻」(國學院大學博物館蔵、嘉永元(1848)年) 國學院大學図書館デジタルライブラリー.

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