昭和14(1939)年 衣棚町の人々は鷹山をどう見ていたか@明倫誌―創立満七十周年記念

 鷹山のある衣棚町は明倫小学校(下京第三番組、明治2(1869)年創立)の校区です。1993年に高倉西小学校に統合され、さらに1995年に高倉小学校に統合されましたが今でも自治会の活動は明倫(元)学区単位です。
 その京都市明倫尋常小学校が昭和14(1939)年に「明倫誌―創立満七十周年記念」という学校史を出版しています。歴史編、町史編などに別れていますが、町史編の中で鷹山のある衣棚町(ころものたなちょう)が紹介されています。その中から鷹山の説明を引用します。

鷹山  
 応仁以前より之を出し天明大火後曳山を一時舁山に改めたが、寛政十年より再び曳き山となる。応仁頃釜座町と二町より出したが、徳川時代は当町北町のみより之を出してゐた。鷹狩の行装せる鷹遣ひが犬飼ひ及び樽を負ひ手には粽を持った従者二人を随伴する。俗に太郎山または樽負山と称した。此の人形は右大将頼朝なりとも中納言行平とも言ひ、恐らく孝光天皇(ママ)仁和二十年二月十四日(ママ)芹川行幸の時行平供奉の鷹匠姿を模したものであらうと云ふ。
(増補祇園会細記)
人形中納言行平卿、山の左端にあり烏帽子。左手に鷹を右手に餌がひを持つ。紺地朝鮮錦狩衣、紺地紗金浅黄八ツ藤の指貫を着す。犬使、山の右にあり侍烏帽子、右手に犬を率ゐる。鳶色朝鮮錦の水干、浅黄地紗金下袴。樽負侍烏帽子、樽を負ひ手に粽を持つ。衣装犬使と同じ。

人形三体に囃子を有し非常に大きな曳山で車は長刀鉾(ママ)と共用してゐた。文政九年神事の節大風雨にて大破に及び翌年より加列しない様になった。以後会所二階に人形飾を行ひ以降現在に及んでゐる。但元治大火の節三人形の首および上手のみ焼失を免れよく現在するを得た。(町有記録)

現今六月八日吉符入。六月十一日人形飾。六月十三日晝(昼)飾。六月十四日山鉾が三条通を東行し終ると直ちに納める。

御町内では、昭和初期には、鷹山の風流を

光孝天皇の仁和ニ年十二月十四日の芹川御幸の鷹狩り

と考えていたことがわかります。「応仁以前より、、、」の文章は、2014年頃まで鷹山の居祭(町家;大学堂)で配られていたパンフレットにも引用されています。
 明倫誌では「孝光天皇」となっていますがこれは「光孝天皇」の誤植、同じく「仁和二十年二月」となっているのは「仁和ニ年十二月」の誤植でしょう。また、後祭の鷹山が前祭の「長刀鉾」と車輪を共用していたとなっていますが、御町内の古文書「三条衣棚文書(京都府立総合資料館蔵)」には長刀鉾と車輪を共用したという文書は見つかりません。前祭の「船鉾」と車輪を共用したという文書は残っています。

<文献>
京都市明倫尋常小学校編(1939) 明倫誌—創立満七十周年記念, 京都市明倫尋常小学校
国立国会図書館デジタルコレクション

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