1834(天保5)年~1837(天保8)年頃 横山華山「祇園祭礼図巻(祇園会眞圖)」紙本著色 2巻 法量 (上) 31.7cm×1456.0cm、(下) 31.8cm×1487.0cm、個人蔵.
鷹山の最後の巡行(文政9;1826年)の約10年後に描かれた絵巻ではありますが、写生に定評がある横山華山(1784-1837)の作品ですから資料的価値も高いと思います。
八反(2013)によれば、内箱の蓋裏に「祇園祭禮眞圖(祇園祭礼真図)」と墨書されています。また八反(2013)は、この絵巻に1834(天保5)年に曳山に改められた綾傘鉾が描かれ、1837(天保8)年に華山が亡くなったことを確実な根拠として、この絵巻の制作年代を1834(天保5)年から1837(天保8)年の間としています。
この絵巻は大船鉾の復原検討の時も参考にしておられて、「装飾の詳細の描き込みは豊富」とのコメントがついています(祇園祭山鉾連合会 2013 「凱旋
祇園祭大船鉾復原の歩み-基本設計図完成報告書-」祇園祭山鉾連合会)。
<古文書との一致点>
横山華山「祇園祭礼図巻(祇園祭禮眞圖)」と三條衣棚町文書の天保3(1832)年6月「鷹匠人形他一式覚」(館古531_08125)とを比較してみます。
横山華山 「祇園祭礼図巻(祇園祭禮眞圖)」 |
天保3(1832)年6月 「鷹匠人形他一式覚」 |
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鷹匠 | 鷹山の進行方向に向かって左側、 青系統の衣装 |
鷹匠人形 着附 紺地楽器模様朝鮮錦、 狩衣 黒紅鸚鵡丸金紗、 差貫 浅黄丁子立分綾 |
〇 |
犬飼 | 鷹山の進行方向に向かって右側、 緑系統の衣装 |
犬使人形 着附 鳶色雲丸龍朝鮮錦、 水干 萌黄鸚鵡丸金紗、 袴 白宇根織裾紫 |
〇 |
樽負 | ? | 樽負人形 着附 鳶色雲丸龍朝鮮錦、 水干 萌黄鸚鵡丸金紗、 袴 柳條綾 |
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屋根 | 黒 | 惣黒塗破風裏宗金前後、 草花粉色軒裏宗無地金、 宗金物減金 |
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天井幕 | ? | 緋羅背板 | |
天水引 | 赤地に鳳凰と雲の図柄 | 猩々緋雲ニ鳳凰縫 | 〇 |
上水引 | 金地に麒麟と雲の図柄 | 金地麒麟錦 | 〇 |
中水引 | 赤字に唐花模様 | 猩々緋唐花縫 | 〇 |
下水引 | 白地に金色の大内桐 | 白地大内桐唐草金乱 | 〇 |
前胴掛 | 毛氊草花模様 | ||
左右後同 | 毛氊蜀江形 | ||
見送 | 花鳥縫結 | ||
舞臺四方 | 舞台から四方に突き出された御幣は金色で紅房付き | 金幣紅房附 | 〇 |
埒縁 | 黒 | 黒塗無地 | |
四方角留 | 金 | 金物鷹紅房附 | |
胴幕角留 | 金物蝙蝠浅黄房附 | ||
真木にキジ | |||
音頭取り綱は青色 | |||
右 文政拾年猪年より相休居申候 年寄 吉右衛門 |
多くの点が三条衣棚町文書の記述と一致します。
<鷹山の屋根>
立派な屋根のある鷹山です。シンプルな切妻です。新古美術三嶋蔵の鷹山の雛形(文化14;1817年)のように反った棟飾りはありません。國學院大學所蔵の冷泉為恭「祇園祭礼絵巻(嘉永元;1848年)」のように極端な反り棟と唐破風とも異なります。鷹山の最後の巡行の時の屋根はどんな形だったのか、今後の調査研究を待ちたいと思います。
<鷹山に禿(かむろ)柱はあったのか?>
禿柱とは、祇園祭の山鉾にそびえ立つ真木を支えるための柱で、舞台の上を斜めに貫ぬく4本の柱です。お稚児さんの介添えの禿(かむろ)になぞらえて禿柱と呼ばれます。祇園祭では、真木を立てる曳き鉾には禿柱があり、真松を立てる曳き山には禿柱がないのが一般的です。
ところがこの横山華山「祇園祭礼図巻(祇園祭禮眞圖)」の鷹山には、舞台を斜めに貫く禿柱、紅白の布が巻かれた禿柱が描かれているのです。
近世日本絵画の研究者の方々にお尋ねしたところ、「『真図』は、『本当の姿をありのままに写した』という意思表明であり、あるものを描かないことはあっても、ないものを描くことはない」とのことです。
しかし現在の曳山(岩戸山、北観音山、南観音山)には禿柱はありません。華山の絵巻では、鷹山だけでなく南観音山にも禿柱が描かれています。現在の南観音山には禿柱はありませんが、南観音山も禁門の変(元治元年;1864年)で櫓を焼かれ、再建されました。禁門の変では南観音山の文書の多くも失われたとのことです。この絵巻では、岩戸山には禿柱は描かれず、北観音山は南観音山と隔年巡行でしたので描かれていません。
鷹山に禿柱があったのは史実なのか、あるいは横山華山の誤解なのか、三条衣棚町文書などの文字資料、1794(寛政6)年に大屋根をつけた岩戸山、1833(天保4)年に飾屋根を付けた北観音山などと照合、比較しながら検討していく必要があります。
蛇足ですが、祇園祭山鉾連合会の公式ホームページの北観音山の説明には「飾屋根を付けたのは天保4(1833)年のことである」とありますが、文化3 (1806)年の速水恒章「諸国図会年中行事大成」には鷹山にも岩戸山にも北観音山にも大屋根が付いています。若原(1981)によると、北観音山は、「宝暦13(1763)年 青天井障子屋根、寛成9(1797)年 木造大屋根、天保4(1833)年 大屋根完成」となっています。
<巡行していない鷹山が描かれた理由>
この絵巻については、八反裕太郎(2013)「横山華山の画業展開に関する一考察」で詳細に検討されています。八反は、
しかし、ここで描かれるはずのない二基の山鉾が本圖に表現される點には注意せねばならない。それは函谷鉾と鷹山である。函谷鉾の復興は天保拾年(1839)のことであり、鷹山は文政九年(1826)の暴風雨で被害を受けて以降、巡行に参加していない休み山である。つまり、本圖が描かれた天保六年から八年という時期には兩山鉾は巡行に加わっていないのである。それにも拘わらず、本圖にはまるで實際に巡行に加わるかのように描出されている。山鉾巡行の實際と齟齬をきたすこととなるが、この矛盾はどのように解釋すればよいのだろう。虚構をあえて加えてまで山鉾巡行の祭礼を描こうと試みた理由は以下の點に盡きよう。それは、「鉾と鉾の間は山三基」という巡行上の規則、そして「山鉾の総数は三十三基」という祇園會の大前提を遵守して描こうと努めている以上、山鉾がどれか一つでも缺ければ、鉾名の比定作業が困難になってしまうためである。
(略)
巡行には未だ復歸できない状況ではあるものの、兩山鉾は幸運にも懸装品は残されていた。華山は兩山鉾に傳存する懸装品を宵山飾りなどで丹念に實地調査したことだろう。本圖の精細な描寫ぶりからもそれは確認される。そういった下地を施したうえで、鷹山と函谷鉾をまるで實際に巡行に加わっているかのように描いているのである。(略)
と科学的に説明しています。御町内の心情としては、冷泉為恭が嘉永元(1848)年に描いた「祇園祭礼絵巻」でも「ちかころ出さすといへとも図せるものなり」とことわりながら鷹山を描いているように、当時も今と同じように鷹山の復興が待たれていたと思いたいです。
<鷹山の天水引「猩々緋雲に鳳凰の縫」>
八反(2013)によると、この絵巻には鉾頭の描写が無いのに懸装品から山鉾を比定できるほど丁寧に描かれています。例えば、鶏鉾は鉾頭がなくても見送りに描かれた欧州風の人物から鶏鉾と比定できますし、隔年で巡行に加列していた北観音山か南観音山かは下水引が飛天であるから南観音山と比定できるとのことです。
さて、鷹山の天水引は、三条衣棚町文書には「猩々緋雲に鳳凰の縫」(館古531-8126 「鷹山人形他一式覚」など)とあります。横山華山の絵巻の鷹山でも天水引は赤地に鳳凰で、三条衣棚町文書と一致します。華山が描いた鷹山の天水引は、布面いっぱいに鳳凰の羽が広がった迫力のある構成です。伊藤若冲『動植綵絵』の「老松白鳳図」を連想しました。
年代的には天水引の下絵が若冲だとしても矛盾はありませんが、確証もありません。長くなるので別項「館古531_08103 天明02(1782)年6月 鷹山人形・錺付一式覚」にします。
<展覧会>
相国寺の承天閣美術館で、この絵巻が展示されました。期間は2011年7月2日(土)~18日(月・祝)でした。この絵巻も見せていただいたのですが、当時は鷹山についての知識が十分ではなく、チェックしておくべき点を見逃したのが悔やまれます。
<文献>
八反裕太郎,2013,横山華山の画業展開に関する一考察」,國華 1417,119(4),7-20.
横山華山筆「京都 祇園祭礼真図」紙本着色、巻子 二巻、(『横山華山展 山形美術館収蔵品を中心として』、2000, 山形美術館.)