文化11(1814)年 役行者山町・藤田吉右衞門貞榮「増補祇園御霊会細記」

「増補祇園会細記」とも呼ばれます。奥付は

文化十一歳
甲戌六月吉日
 古京室町通役行者山町
  藤田吉右衞門貞榮謹書

となっています。役行者山町は室町通三条上ルで、鷹山のある衣棚町は三条通室町西入ですから、まさに鷹山の隣町の方がお書きになった江戸時代後期の祇園祭の記録です。

京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センターのデータベース「画像資料にきく「祇園囃子」」では、文化9(1812)年としていますが、跋文にも
甲戌
とあるので、文化11(1814)年とします。
林屋・宇野(1992)が翻刻し、活字になっているので読みやすいです。この翻刻に使われた底本は不明ですが、おそらく役行者山町がお持ちのものを底本としたのではないでしょうか。

他に西尾市岩瀬文庫に「増補祇園会細記」の筆写本(書誌情報)があり、国文学研究資料館で画像をみることができます。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-24603
全330コマのうち220~226が鷹山に直接関係する記述です。

岩瀬文庫の「増補祇園会細記」には林屋ら(1992)の翻刻には含まれていない記述もあります。林屋ら(1992)の翻刻では

當日山渡りしまい東洞院四條上ル町にて囃方町中供皆〃休足す、
夫より當町江歸り、三條西洞院辻迄引行也、三條西洞院東江入釜座町寄町ある故なり、

 寄町

となっていますが、岩瀬文庫では「三條西洞院東江入釜座町寄町ある故なり」と「寄町」の間に

四條坊門通西洞院西江入 本能寺町、六角通西洞院西江入 六角本(元)本能寺町、西洞院六角下ル 池須町、油小路六角下ル 六角油小路町 右四町より地之口として
(略)
神事當日東洞院四條上ル坂東屋町にて山をとめ人家のをもてをかり鷹山町供の人々休息ありて前日人形にそなへし御神酒を鷹山町中の人々頂戴 夫(それ)ゟ(より)本町江帰るなり

という文章があります。

前半は、本能寺町、南本能寺町、池須町、六角油小路町の4町が衣棚南町に地ノ口を納め、南町がそれを鷹山町に納めるという二段階式の地ノ口の話で、富井(1971)に詳しいです。富井は「枝寄町」という言葉で説明しています。

後半は、巡行の当日、鷹山が東洞院四条上ル坂東屋町で休息したことを示します。坂東屋町は四条通には面していませんので、この記述は鷹山が四条東洞院で辻回しをし東洞院通を北上し、さらに三条東洞院で辻回しをして町内に戻った傍証になります。
鷹山の直後に大船鉾が続いていますので、四条通で休息すると大船鉾の巡行を妨げます。それで鷹山は東洞院通に入って休息したものと思われます。そしてこの経路なら「夫より當町江歸り、三條西洞院辻迄引」とあるように、鷹山が三条通室町の衣棚町に戻った後に三条通をそのまま西へ進み三条通西洞院(釜座町)まで曳いていくのも容易です。

また「増補祇園御霊会細記」の鷹山の項に、

増補
惣而引山といふものハ愚か幼年の比迄ハ此山にかぎらす、上下観音山・岩戸山等何れも洞(ホラ)有て、其洞の上の所にハ屋根なく、屋根ハ青天丼の障子にて、それに上水引をかけ、見送も洞の後一掛たりしか、近年ハ洞もなく、屋根も木の黒塗にして網かくしを附、今ハ鉾(ホク)に眞木(シンキ)のなきばかりなり、かへつて引山といふ趣意ハなくなり、(略)

とあるので、鷹山は、「増補祇園御靈會細記」が著された文化11(1814)年には、今の北観音山や南観音山と同様に山洞がなくなっていたことがわかります。この部分については、神道大系所収と岩瀬文庫所蔵の差異はありません。
この後、鷹山は文政3(1820)年頃に屋根を補修し中水引を新調しますが、文政9(1826)年の巡行の大雨で懸装品を汚したとして、三條東洞院で止まってしまいます。その後は巡行に参加せず、居祭を続けることになります。

<文献>
藤田吉右衞門貞榮,1814(文化11)年,「増補祇園御靈會細記」(林屋辰三郎、宇野日出生(校注) 1992『神道大系 神社編 10 祇園』、神道大系編纂会).

富井康夫,1971,「祇園祭の経済基礎」,秋山國三(編)『京都社会史研究』,法律文化社,189-246p.