天明2(1782)年 鷹山人形・錺付一式覚(中納言行平卿)

館古531_08103 天明02(1782)年6月 鷹山人形・錺付一式覚

三条通新町東入衣棚北町

鷹山
人形 三
鷹飼 中納言行平卿 狩衣紗金黒紅鴛鴦、番繪指貫浅黄地、紫轡唐草
犬飼 水干紗金松重鸚鵡、番繪袴うね精好紫、裳濃
樽負 水干同断、袴綾嶋
雉子


棉附
天水引
猩々緋雲鳳之縫
鰲山禅師之画   (鰲 ゴウ;おおがめ)
後家臺天幕 金華布

胴巻 上水引 紺地滝龍蝦夷織
中水引 百花菊之唐織
下水引 白地大内古金襴形

前掛 毛織り天鵞絨花壇 (天鵞絨 ビロード)
縁猩々緋縫

左右 右同断
縁猩々緋蠻画縫 (蛮画;南蛮画)

見送 唐縫花鳥
縁猩々緋雲鶴岩頭之縫

右之通御座候
天明二年 三条、、、、
壬寅六月  年寄 伝兵衛

右十六日夕 町代長兵衛より案文到来 則 右之通認め十七日に出す

館古531_08103_0002t0003t

鷹山のご神体が「中納言行平」であると明記してあるのはこの文書だけで、これ以外の文書にはご神体のお名前は出てきません。

鷹山の天水引「猩々緋雲鳳之縫」の下絵の作者「鰲山禅師(ごうざんぜんじ)」とは誰のことなのでしょうか。
キーになるのは、
1) 禅僧で鳳凰が得意な絵師
2) 天水引は、宝暦8(1758)年に制作(館古531-8160、531-8162、531-8096「宝暦8寅 七百匁 白鳳縫代」)
3) 中国の鰲山のような石の山の禅寺に関係がある

宝暦、天明期の画家で鳳凰といえば真っ先に伊藤若冲が浮かびます。
若冲は、宝暦5(1755)年に弟に家督を譲り、宝暦8(1758)年頃から「動植綵絵」を描き始めます。動植綵絵の中に有名な「老松白鳳図」があります。
若冲は、安永2(1773)年に「革叟」という法名をもらって禅僧になり、晩年は深草の石峯寺で五百羅漢の石像を制作し、寛政12(1800)年に亡くなっています。

鷹山の天水引の下絵制作を絵師に取り次いだのは、町内の井筒屋徳兵衛で宝暦8(1758)年のことです(三条衣棚町文書8096「祇園會入拂帳」)。井筒屋は文政9(1826)年の宗門人別改帳に「代々浄土宗 金戒光明寺」とあります。伊藤若冲の菩提寺は浄土宗の宝蔵寺です。ということは、
鷹山~井筒屋~金戒光明寺~浄土宗~宝蔵寺~伊藤若冲
というつながりがあっても不思議ではありません。

鷹山の天水引「猩々緋雲鳳之縫」は宝暦8(1758)年に制作されていますので、年代的には「鰲山禅師」が若冲を指すとしても矛盾はないのですが、この文書が書かれた天明2(1782)年当時、町の人が若冲のことを「鰲山禅師(ごうざんぜんじ)」と呼んだのか否かは確認できていません。

若冲は「千載具眼の徒を竢つ(私の絵を理解してくれる人を千年でも待つ)」という言葉が独り歩きしてしまって、若冲が生きている時代には有名ではなかったとの誤解が一般の人にはあるようですが、江戸時代の紳士録「平安人物志」の画家の項に円山応挙(1733~1795)と伊藤若冲(1716~1800)が並んで載っているぐらいで、若冲は江戸時代にも名の通った画家でした。(『平安人物志』画家の項 明和5(1768)年版安永4(1775)年版天明2(1782)年版、日文研蔵)

鰲山禅師(ごうざんぜんじ)=伊藤若冲説の最大の問題点は、若冲は居士(在家)と名乗っており、禅師と自称したことがないことです。

この文書の書き手が文字を間違った可能性もあります。本来は、部首が「黽(ぼう)」の「鼇山(ごうざん、ごろざん)」だったのに、部首が「魚」の「鰲山」と書いたのかもしれません。江戸中期に僧鼇山(生没年不詳)という禅僧の画家がいます。

僧鼇山は、総社市(岡山県)の井山宝福寺(臨済宗東福寺派)の仏殿の天井に「水呑み龍」と呼ばれる龍を描いています。この龍は夜になると仏殿前の池に水を飲みに天井から降りてきたので、龍の目に釘を打ったところ天井から降りてこなくなったそうです。ちなみに宝福寺は幼少期の雪舟が修行をした寺で、雪舟が自分の涙を墨代わりにして脚で描いたネズミの伝説の舞台です。

黒川(1988)によると、鼇山は、佚山黙隠(いつざんもくいん;元禄15(1702)年-安永7(1778)年)の実弟で、望月玉蟾(もちづき ぎょくせん;宝暦3(1753)年あるいは宝暦5(1755)年に逝去)に画法を学んだとのことです。
佚山黙隠は篆刻で有名で、宝暦7(1757)年には京都に移り、安永4(1775)年版の「平安人物志」には「誓願寺西林庵」と記載されています。

黒川修一 1988, 「佚山」, 『京の絵師は百花繚乱』,京都文化博物館,p.268.

宝暦7(1757)年に僧鼇山の実兄の佚山黙隠が京都に移った頃に、実弟の鼇山も京都にいたのでしょうか。「平安人物志」の記述から、佚山が誓願寺に居たのは間違いないのですが、臨済宗の僧である佚山が浄土宗の寺である誓願寺に居た理由はわかりません。
また金戒光明寺と誓願寺は、同じ浄土宗ですが鎮西派と西山派に分かれていますので両寺の間にどのような交流があったのかも不明です。

前述のとおり、宝暦8(1758)年に鷹山の天水引の下絵制作を絵師に取り次いだのは、町内在住で浄土宗金戒光明寺を菩提寺とする井筒屋徳兵衛です(三条衣棚町文書8096「祇園會入拂帳」)。ということはということは、
鷹山~井筒屋~金戒光明寺~浄土宗~誓願寺~佚山黙隠(兄)~僧鼇山(弟)
というつながりがあっても不思議ではありません。

鷹山が宝暦8(1758)年に天水引の下絵を依頼したときは、「水引 下絵代 拾八匁」でしたが、同年に追加で「猩々緋水引 下絵之禮 八拾六匁」を渡しています。下絵は、当初の期待以上の出来だったのではないでしょうか。

僧鼇山の実兄の佚山黙隠には「花鳥図屏風」(宝暦14(1764)年、東京国立博物館蔵)という名画がのこされておりますが、残念ながら僧鼇山については現存作品も少なく研究も進んでいません。鷹山の天水引「猩々緋雲鳳之縫」の下絵は僧鼇山だと断定するのも難しいです。

鷹山が最後の巡行した頃まで懸装品リストに挙がっている天水引「猩々緋雲鳳之縫」は、宝暦8(1758)年に作成された天水引「猩々緋水引 鳳凰之縫」と同じ名前です。しかし、鷹山は宝暦頃は簡単な屋根のある大きな曳山でしたが、その後、黒塗りの屋根のある大きな曳山に代わっています。天水引をかける部分の大きさが変わっても仕立て直しをして使い続けたのでしょうか。仮に宝暦8(1758)年の天水引を使わなくなったのなら、それに関連する文書が現在まで廃棄されずに残っているのが不思議です。

現在では、鳳凰は鶏の化身だとされ、鳳凰の頭部が白く描かれることが多いですが、横山華山の描いた鷹山の天水引の鳳凰の頭部は緑色です。
伊藤若冲の描いた鳳凰も、初期の頭部は緑色ですが、後期になると白くなります。
横山華山が鷹山の鳳凰の頭部を緑色に描いている事実は、この「猩々緋雲に鳳凰の縫」という天水引が宝暦の下絵に基づいて作成された傍証になるのではないでしょうか。

いずれにせよ鷹山の天水引の下絵を描いた鰲山禅師とは、伊藤若冲のことなのか、僧鼇山のことなのか、それとも別の人なのか、今後の研究を待ちたいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です