鷹山の横を北観音山、南観音山がすり抜けていった?~中井家系の京都図「洛中絵図」に描かれた鷹山(三条衣棚)町

 鷹山は祇園祭の後祭で最後尾を行く大船鉾の直前を進む「くじとらず」の大きな曳山でした。鷹山は三条通の室町と新町の間にあります。当時の後祭は、三条通~寺町通~四条通と巡行していました。
 後祭には、鷹山と大船鉾の他に北観音山、南観音山(江戸時代は隔年交代で巡行)という大きな曳山があります。どちらも新町通にあって巡行の順番は鷹山よりも前でした。
 ということは、巡行の日に観音山はどこかで鷹山を追い抜かなければなりません。

洛中絵図巡行当時の巡行ルート

 観音山が鷹山を追い抜く方法は少なくとも3つ考えらえます。
1) 鷹山を新町通の西側の釜座町に移動させて、三条通を空けて観音山を通す。
2) 鷹山を衣棚通(衣棚突抜町)に建てる、あるいは衣棚通に移動させて、三条通を空けて観音山を通す。
3) 鷹山の横を観音山が通る。移動させる必要はない。

1) の問題点は2つあります。まず、三条通が新町通の西側、つまり釜座町の東部で坂になっていることです。わざわざ坂道を移動させるのは大変です。二つめの問題点は、鷹山の古文書に「巡行の終了後、(寄町である)釜座町に鷹山を曳いていき、あいさつする」という内容が書かれていることです。巡行の前に鷹山を釜座町に退避させ、巡行が終わった後に再び鷹山を釜座町に曳いていくのは二度手間に思えます。

2) の問題点も2つあります。鷹山を衣棚通に建てたのなら、鷹山の場所は「衣棚通姉小路と三条の間」であるはずですが、どの文書を見ても鷹山は「三条通室町と新町の間」にあったと書かれています。また鷹山を衣棚通に退避させるには辻回しが必要で、これも二度手間です。

3) の問題点は三条通の道幅が狭いことです。当時の曳き手がいかに上手であろうとも、曳山の横を別の曳山が通り抜けるのは無理だろうと思われました。

 さて、京都市歴史資料館(寺町通丸太町上ル)で「古地図のいろいろ--手書き地図の世界」というテーマ展が開催されています。会期は2015年9月12日(土)から12月9日(水)です。

 この展覧会に宝永の大火(宝永5;1708年)以前の中井家系の京都図「洛中絵図」が展示されています。この地図で三条通室町付近をみると、三条通の衣棚通付近の北側、今の医健の新館とコインパーキングのあたりの三条通が少し北側に広がって描かれています。

ということは、この三条通が少し北側に広がった場所で鷹山は観音山をやり過ごしたのでしょうか?

<1642年頃作成の「洛中絵図」では三条通が鷹山の所だけ広くなっていた>
 京都市歴史資料館で展示されている古地図より60年ほど前の資料ですが、京都大学電子図書館の洛中絵図(京都大学附属図書館所蔵;flash版のみ;PCの利用をお勧めします)でも三条通の衣棚通付近の北側が広くなっていた様子を確認できます。この絵図は、寛永19(1642)年前後に描かれたとされています。

洛中絵図衣棚鷹山のある三条通室町と新町の間の略図;京都大学図書館蔵「洛中絵図」(1642年頃)をベースに作成

<18世紀前半の「洛中絵図・洛外絵図」でも三条通が鷹山の所だけ広くなっていた>
 また国立国会図書館デジタルコレクションの中に「洛中絵図・洛外絵図」があります。国会図書館がお付けになった書誌情報が少ないのでURLを補っておきます。この地図でも鷹山がある衣棚町(三条通室町西入)の道路の北側が少し広くなっていたことがわかります。
 洛中絵図・洛外絵図_衣棚町付近_国会図書館国会図書館デジタルコレクション「洛中絵図・洛外絵図」18世紀前半

 この地図が描かれた年代も、いつ頃を表現しているかも書誌情報からは不明ですが、地図の繁昌町(高辻通室町西入)に「狩野養卜(常信;1636~1713;木挽町狩野家2代目)」と「狩野探信(守政;探幽の長男;1653~1718;鍛冶橋狩野家2代目;7代目の守道も探信を名乗った)」の名前があります。また鯉山町(室町通六角下ル)に「絵師了琢」とありますが、これは木村了琢(仏画を専門とする絵師で、代々了琢を名乗る)のことでしょうか?さらに東洞院通六角下ルの町名が「諏訪之町」となっていますが、これは18世紀中頃に現在と同じ「御射山町」に変わっています。これらの点から、この地図は18世紀前半の地図だと推定できます。残念ながら宝永の大火(1708年)の前か後かは調べ切れておりません。

大きめの「洛中絵図・洛外絵図」(1.8MB)
 「洛中絵図・洛外絵図」から祇園祭の山鉾町と山鉾巡行の範囲を抜き出してみました。月鉾の御町内が「扇之座町」だったり、船鉾の御町内が「北・南袋屋町」だったり、祇園御旅所が四条通寺町の南側ではなく東側にあったり、鴨川にかかる橋は三条と五条は常設だが、二条、四条、松原は仮設のような橋だったり、御土居(深緑色)があったり、興味深いです。

<三条通に鷹山以外の山鉾がない理由>
応仁文明の乱以降に再興された山鉾の中で、八坂神社の還幸祭の御神輿のルートに重なるのは、大船鉾と鷹山だけで、他の山鉾は御神輿のルート上にありません。前祭の神幸祭の御神輿が四条寺町の御旅所までしか来られませんから、前祭の山鉾が御神輿の邪魔になることはありません。
大船鉾の御町内は東御座が通られますので山仕舞が間に合わない時は御神輿が通られない別の場所に移動させておられるそうです。
しかし、鷹山のある三條通は、中、東、西の3基の御神輿が通られます。御神輿は三条通を大宮から寺町まで直進されますので、別の場所に避けるのは難しいです。そのためにも三條通衣棚の北側のスペースは有効だったのでしょう。逆に言えば、一年のうちたった一日しか使わないスペースを確保できるだけのゆとりが御町内になければ、三条通に山鉾を建てるのは難しかったのでしょう。

<現在の三条通衣棚町付近>
 現在の三条通の道幅はほぼ一定で、衣棚通付近で北側に広がっていた痕跡はほとんど見られませんし、土地の境界を示す境界標も道路と一致していますが、江戸時代は三条通が鷹山を置ける分だけ北に広くなっていて、観音山や3基の御神輿は鷹山の横を通れたのではないでしょうか。

<前祭の放下鉾、岩戸山、船鉾>
 前祭の巡行の最後尾の3基は、放下鉾、岩戸山、船鉾の順で「くじとらず」です。ところが地理的には、北から順に放下鉾、船鉾、岩戸山となっていて、船鉾と岩戸山が入れ替わっています。現在の巡行は新町通を御池通から南下しますので、道路幅の広い御池通で放下鉾が待機し、岩戸山と船鉾を先に行かせます。本来の巡行は新町通を松原通から上がりますので、放下鉾が他の山鉾を待つ必要はありません。しかし、船鉾は岩戸山を追い抜く必要があります。それで、岩戸山の御町内は現在でも道幅が少し広くなっていて、追い抜けるような配慮がされているように見えます。
 鷹山や岩戸山のように他の山鉾の追い越しが必要な御町内は、追い越せるように御町内の道幅を広くする慣行があったのではないでしょうか。

<鷹山は新町通を経て戻ったのか?>
 巡行の後、鷹山は町内に戻る必要があります。新町通を戻るならば観音山の横を通り抜ける必要があります。御町内の記録によると、鷹山は巡行の後、東洞院通四条上ルの角鍵(東洞院通四条上ル阪東屋町にあった長崎糸割符商かぎや又右衛門と思われます)で休息していました。観音山が崩されて新町通が通れるようになった後に、鷹山は新町通を上がって御町内に戻ったのでしょうか?
 新町通ではなく室町通を戻ってきた可能性もあります。観音山のような曳山だと崩すのに時間がかかりますが、舁山は短時間で崩せます。新町通には曳山がありますが、室町通には舁山しかありません。新町通も室町通も道幅は同じです。御町内の古文書には三条通室町の交差点に接する3つの御町内に「今後は事故の無いように」とお願いした文書が残っています。

<鷹山は東洞院通を戻った可能性が高い>
 鷹山は東洞院四条上ルの角鍵で休息した後、そのまま東洞院通を北上し、東洞院三条で辻回しをし、御町内まで戻ったのではないでしょうか。その根拠は次の7つです。

  1. 四条烏丸まで行く必要はない。
     中世から近世の山鉾巡行(後祭)の出発地点は三条東洞院でした。そこから三条通、寺町通、四条通を経てそれぞれの御町内に戻るという経路でした。中世は祇園御旅所(大政所)が烏丸通仏光寺下ルにありましたから、山鉾が烏丸通まで行く意味があったでしょうが、豊臣秀吉が天正の地割りで御旅所を四条寺町に移設した後は、山鉾が烏丸通まで行く積極的意義は無くなってしまいました。
     もっとも享保2(1717)年頃に成立した「京都御役所向大概覚書(きょうとおやくしょむきたいがいおぼえがき)」には、前祭は「四條通東洞院ニ而揃、四條東江、寺町南江、松原西江、東洞院迄、夫より銘々町々江戻り申候」とあり、後祭は「三條通東洞院ニ而揃、三條東江、寺町を南江、烏丸迄夫より町々江戻り申候」とあります。前祭が東洞院(四条)から東洞院(松原)までなのに対して、後祭が東洞院(三条)から烏丸(四条)までとあるのが不思議です。もう少し資料を調べる必要があります。
  2. 東洞院通は大路であった。
     平安京の頃は、東洞院通は東洞院大路といい、三条大路(三条通)、東京極大路(寺町通)、四条大路(四条通)、五条大路(松原通)などと同じく道幅が8丈(24m)の大路でした。それに対して、町小路(新町通)、室町小路(室町通)、烏丸小路(烏丸通)は道幅が半分の4丈(12m)しかありませんでした。実際には本来の道路にまで家屋が張り出して来ていたでしょうから道幅に大きな違いはなかったでしょうが、東洞院通は今以上に存在感のある道路だったのではないでしょうか。実際、森幸安が応仁から天正の京都を推定して作成した「中昔京師地図」には三条東洞院北西(現在のNTTの場所)に町奉行所が、北東(現在の中京郵便局から京都文化博物館にかけての場所)には曇華院(二代将軍足利義詮の夫人の母、智泉尼の創建の大きな古刹)が描かれています。
  3. 東洞院には山鉾がないから通りやすい。
     新町通と室町通には山鉾がありますので、山を崩し終わるまでは鷹山が通行できませんが、東洞院通には山鉾がありませんから鷹山の通行に支障はありません。
  4. 鷹山が休憩した「角鍵」は東洞院通にあった。
     御町内の古文書によると、鷹山は巡行の時、東洞院の「角鍵」で休憩していました。これは、東洞院通四条上ル(阪東屋町)の長崎糸割符商「かぎや又右衛門」と思われます。阪東屋町は四条通には面しておらず、東洞院通に面しています。
     「角」といっても交差点の角にあったのではなく、シンボルマークが「角」だったのでしょうか。この点については、もう少し資料が必要です。
  5. 鷹山の模型を作った「雁半」は東洞院通にあった。
     新古美術三嶋蔵の「鷹山の雛形」は、東洞院六角下ル(御射山町)にあった西陣織物(金襴紋織)商「雁半 中村半兵衛」の旧蔵です。雁半が鷹山の模型を作ったのは、店の前を鷹山が通るので、鷹山に親しみを持っていたからではないでしょうか。
  6. 東洞院三条の交差点は鷹山が曲がりやすいように「すみきり」してある。
     現在の東洞院通は南行の一方通行ですから南西の角を「すみきり」しても意味がありません。しかし鷹山が南から上がってきて西に曲がる時に、この「すみきり」があると楽に辻回しができます。(江戸時代後期に東洞院通が北行の一方通行だったと書いておられる人もありますが基礎資料を確認できておりません。)
  7. 鷹山を寄町の釜座町まで曳いていってあいさつするのに辻回しが4回で済み無理がない。
     鷹山の古文書に「巡行の終了後、(寄町である)釜座町に鷹山を曳いていき、あいさつする」という内容が書かれています。三条通、寺町通、四条通、東洞院通、三条通という経路なら辻回しは4回で済み、合理的です。

 文政9(1826)年、鷹山の巡行は「東洞院三条」で中断してしまいました(御町内の記録)。その後、約190年が経ちましたが、東洞院三条を通るたびに鷹山の御神体や、当時の御町内の方々の熱い想いを感じてしまいます。

東洞院鷹山が御町内にお戻りになる経路(推定);国土地理院の電子国土Webの地形図をベースに作成

 現在は四条通の歩道の屋根が東洞院通の上にも続いていますし、東洞院通の上を横断する電線類が張り巡らされていますから、鷹山が東洞院通を通って衣棚町に戻るのは現時点では難しいでしょう。

<参考>
応仁の乱の後(推定) 中昔京師地圖 森幸安 1753(宝暦3年)  国立国会図書館デジタルコレクション

1642(寛永19)頃 洛中絵図 京都大学電子図書館

18世紀前半 洛中絵図・洛外絵図 国会図書館デジタルコレクション

1945~ 京都市明細図オーバーレイマップ 立命館大学日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点 

現在 電子国土Web 三条東洞院付近の地図 国土地理院