延宝4(1676)年 黒川道祐「日次記事」に鷹野山、別名「樽負」

「ひなみきじ」と読みます。1月から12月までの日々の行事を節序、神事、公事、人事、忌日などにわけて記載した書物です。

[六月][十三日][人事]
祇園會山鉾先後定
 明日 祇園會 山鉾 先後之次第 今朝 於六角堂 取鬮 同于六日之儀
 (明日の祇園祭の山鉾の順番。今朝、六角堂でクジを取る。(ここに)六日(前祭)の方法と同じ。 )
[六月][十四日][神事]
祇園會
 朝巳刻許山渡。 第一橋辨慶山 其次鈴鹿山 観音山 八幡山 役行者山 黒主山 浄明山 鯉山
 各八本 因昨所執鬮 之 次第而 渡之。 第九鷹野山 或 称 樽負。 第十 船鉾 不及 取鬮。
 此鉾 因在 三條通西方之終也。
 (朝、巳の刻より山が巡行する。第一は橋弁慶山、その次は鈴鹿山、観音山、八幡山、役行者山、黒主山、
  浄明山、鯉山。これらの八基は昨日クジを取った順番で巡行する。九番目は鷹野山、樽負ともいう。
  十番目は船鉾。クジは取らない。この鉾は三条通の西の端に在るからである。)

 合十本自西三條東方歴京極 取司之家士 於京極誓願時 監視之
 自茲過四條通各々還本所
 (あわせて十基は西は三条より、東の方は京極をへる。所司代の家士は京極の誓願寺でこれを監視する。
  ここにより、四条通を過ぎて、各々、もとの所に還る。

 所出山之町人及所属之町者其外氏子等供奉三條東洞院與高倉通之間雑色南方北面而坐、、、

この頃には、鷹山はすでに樽負と呼ばれていました。鷹狩の風流なのに鷹匠がメインキャストではなく、チマキを食べる樽負様がメインだったようです。