文応2(1261)年 たつとりの人を引こす落草に犬よびかわしあざる狩人@為家七社百首

宝暦7(1757)年の「祇園御霊会細記」に簡単な屋根のある鷹山が描かれています。版心(折り目の部分)の書名は「祇園會細記」となっています。
鷹山についての説明の最後に
「古歌に
堂津とりの人を引こ須落草に
犬よひかはしあさ流狩人
(たつとりの ひとをひきこす おちくさに いぬよびかわし あざるかりひと)」
と書かれています。

この古歌は、藤原為家(1198-1275)が文応2(1261)年に編んだ「為家七社百首」のうちの一つです。
為家は、祖父が藤原俊成、父が藤原定家という和歌の名門で、為家と阿仏尼の間に生まれた冷泉為相が冷泉家の初代です。

この歌の意味ですが、

引き越す—追い抜く。追い越す。
落ち草—鷹狩の獲物が潜む草むら。
あざる—戯れる。走り回る。ほたえる(関西方言?)。

ですので、

人の背丈よりも高い草むらから鳥が飛び立った。狩人が犬と声を掛け合いながら戯れるように走り回っている。

という感じでしょうか。

この歌が納められている歌集は、「為家五社百首」と呼ばれることもありますが、ここでは「為家七社百首」としています。その理由は次の3つです。
1) 「為家七社百首」は、為家の祖父の俊成が伊勢、賀茂、春日、日吉、住吉の五社に百首ずつ奉納した「俊成五社百首」に倣って為家が編んだ歌集です。為家は俊成の五社に岩清水、北野を加えた七社に百首ずつ奉納したので、為家のは「五社」ではなく「七社」です。
2) 冷泉家時雨亭文庫の「為家詠草集 上 第十巻」にも「七社百首」として収録されています。
3) 俊成と為家の「百首」の関連について研究した福留瑞美(2014)は「為家七社百首」としています。
このような理由で「為家七社百首」としました。冷泉家時雨亭文庫では「七社法楽」とも呼ばれるようです。

福留瑞美 2014 『為家七社百首』の祈りの系譜-『俊成五社百首』の影響と、為家の独自性について- 、国文学, 98, 21-32.

福留瑞美(2014)から「為家七社百首」の序を引用します。孫引きでごめんなさい。

いま又浜千鳥跡ふむべくもあらぬ身に、再び勅撰をうけた
まはり撰ぶべきにあたれるも、末の世にはいよいよ人の心
ざしも身のあやまりもかたがたおそるべきよしなれば、浦
の浜木綿重ねて思ひ立ちて、文応元年九月のすゑ日吉にこ
もりて、祝成賢宿禰に申しあはせ侍りしかぱ神慮にやあり
けん、速やかに思ひ立つくきよしはからひ申すによりて、
そのころほひより始めて、霜月の中旬に詠みをはりぬる。
そののち又思へば、石清水、北野にも心ざしありて、年の
暮れに重ねて二百首を詠み加へて、次の年正月十八日によ
みをはりぬ。

この序から「為家七社百首」が成立したのは、文応2(1261)年1月18日であることがわかります。

日文研のデータベースから前後の歌を抜き出すと、

00461 あかほしの-ひかりさやけき-あかつきは-あけしいはとの-おもかけそたつ
00462 もとすゑの-さかきみてくら-とりとりに-これもひとつに-なるとこそきけ
00463 はしたかの-とたちのしはの-かりころも-ひもゆふこりの-しもはらふらし
00464 ひまもなし-ふゆはかたのの-みかりひと-ひつきのとたち-あさるおとして

00465 たつとりの-ひとをひきこす-おちくさに-いぬよひかはし-あさるかりひと

00466 けふははや-ひつきのみかり-かりくれぬ-かたののさとに-やとやとらまし
00467 あはつのの-とたちのすすき-ふみしたき-あさしもわけて-いつるかりひと
00468 たつとりの-あとをとめてや-あさるらむ-かたののみのの-ゆきのあさけに
00469 いくよにか-きたののはらの-みこしをか-とたちのあとも-ふりまさるらむ
00470 うつもるる-ゆきにしもこそ-すみかまの-けふりはなほも-たちまさりけれ

となり、この歌は交野(かたの;大阪府交野市)での鷹狩りを詠んだ歌のようです。

宝暦7(1757)年に「祇園御霊会細記(別名、祇園會細記)」が出版された頃は、鷹山の風流は、在原行平の芹川の鷹狩とはみなされてなかったのかもしれません。