仁和2(886)年12月14日 芹川行幸@日本三代実録

 鷹山の風流である鷹狩、つまり「光孝天皇(仁和の帝)の芹川野への行幸」が当時の朝廷の公式記録「三代実録」に記されています。
 在原行平の名前は出てきませんが、このとき行平は中納言で、この鷹狩には参議以上が参加しています。中納言は参議以上ですので、行平も参加しています。行平は鷹狩の名手として有名でした。在原行平の弟・業平はこの鷹狩の前に亡くなっています(880年、在原業平卒)。

 この行幸の時、行平は69歳で、光孝天皇も57歳と御高齢でした。

 光孝天皇と在原行平は百人一首にも和歌を残されています。

15番「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」光孝天皇 『古今集』春・21

16番「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」中納言行平 『古今集』離別・365

 お二人のお歌が百人一首で並んでいるのも何かのご縁でしょうか。ちなみに

17番「千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」在原業平朝臣 『古今集』秋・294

ですから、同時代の人を地位の高い順に並べただけかもしれません。

<大意>
(光孝天皇が)芹川野へ行幸。寅二剋(午前3時頃)、鸞駕(帝が乗られる駕籠)で建礼門を出て、門の前で駕籠を駐める。源定省(光孝天皇の皇子で臣籍降下;光孝天皇の崩御に際し皇族に戻り皇太子になり、翌日に践祚し、即位;宇多天皇;朱雀太上天皇とも)に帯剣を賜る。この日、参議以上の者に摺布衫と行縢を着用するよう勅命。別に源定省と正五位下藤原朝臣時平にも摺布衫と行縢を着用するよう勅命。辰一剋(午前7時頃)、野口に着いて、鷹鷂を放ち、野禽を獲る。(略)夜、鸞駕で宮に還る。
この日は朝から夕まで風雨が激しかった。

<日本三代実録 巻第四十九 仁和二年十二月の項より>
十四日戊午。行幸芹川野。寅二剋、鸞駕出建礼門、到門前駐蹕。勅、賜皇子源朝臣諱(定省)《朱雀太上天皇》帯剱。是日、勅参議已上、着摺布衫行縢。別勅皇子源朝臣諱(定省)。散位正五位下藤原朝臣時平二人、令着摺衫行縢焉。辰一剋、至野口、放鷹鷂、払撃野禽。山城国司献物、并設酒醴、飲猟徒。日暮、乗輿幸左衛門佐従五位上藤原朝臣高經別墅。奉進夕膳、高經献物。賜従行親王公卿侍従及山城国司等禄各有差。夜鸞輿還宮。」是日。自朝至夕、風雨惨烈矣。

<文献>
日本三代実録 巻第四十九 起仁和二年正月尽仁和二年十二月. 国史大系 第4巻 日本三代実録, 経済雑誌社, 1897年.
国立国会図書館デジタルコレクション