鷹山のサイズ

鷹山の形は、屋根のない大きな曳山、簡単な屋根のついた大きな曳山、黒塗りの屋根のついた大きな曳山と変化していきました。その大きさはどう変化したのでしょうか。

<屋根のない曳山>
寛永年間 京都国立博物館蔵「祇園祭礼図絵巻」(観音山にも屋根はない)
正保年間 永青文庫蔵「祇園祭礼図絵巻」(観音山にも屋根はない)
(1708(宝永5)年 宝永の大火)
宝永年間「宝永花洛細見図」(観音山も屋根なし)
宝永花洛細見図「宝永花洛細見図」国会図書館デジタルコレクション(全12コマ中9コマめに鷹山)

<簡単な屋根のついた曳山>


愛媛大学鈴鹿文庫所蔵「祇園御霊会細記」より引用

鷹山のサイズを書き留めた記録は、

  1. 「祇園会神事諸覚記」(三条衣棚町文書8097;同志社翻刻11-139)
  2. 「鷹山家台修復(入用帳)」天明元(1781)年(三条衣棚町文書8102;同志社翻刻08-120)

の二つが見つかっています。

「祇園会神事諸覚記」(三条衣棚町文書8097;同志社翻刻11-139)

山立松寸尺覚
惣長サ    五間三尺余
身木     弐間弐尺
枝付     三間壱尺
本口さし渡し 七寸余
新町通一条下ル丁 植木や善兵衛

山牛物寸尺
弐尺八寸三分 四寸三分 三尺五寸八分 三寸二分 六尺四寸四分 此間三寸二分 弐尺五寸余 四寸三分 弐尺五寸
惣長サ 壱丈八尺五分
厚サ  六寸  金物共
幅   壱尺弐寸七分

山舞臺 尺 金さし
前後 七尺七寸
南北 壱丈七寸

この横帳には当家(とうや;祭りの当番の家)が93年分も記録されています。年については干支しか表記されていないのですが、
「申ノ年 当人 三 治兵衛
但し吉兵衛当番之処、火ノ構ニ付治兵衛務メル
当春大変ニ付、南町西町客来なし、依而相伴人なし」
とある申年は、1788(天明8)年戊申1月30日の天明の大火があった申年と考えてよいでしょう。このように仮定すると9年前に
「一 亥之年  當人  二 徳兵衛    十二日十三日停止ニテ引初宵宮なし」
とあるのは1779(安永08)年己亥となります。この年の11月に第118代の後桃園天皇が崩御しておられますので、祇園会のある6月は既に御不例で歌舞音曲がひかえられたと考えればつじつまがあいます。この横帳には1720(享保5)年から1812(文化9)年までの93年間の出来事が記録されているとみて良いでしょう。
この屋台の寸法は次に説明する天明2年の新屋台に比べて小さいので、天明元(1781)年まで使われた屋台と考えられます。

<立派な屋根のついた曳山>

「鷹山家台修復(入用帳)」天明元(1781)年(三条衣棚町文書8102;同志社翻刻08-120)

伏見茨木屋惣兵衛殿
一. 弐百五拾匁 牛持 一丁
壱尺六寸
八寸
長さ 弐丈一尺

河原町 万足屋久兵衛殿
一. 弐百七拾一匁 牛持 一丁
長さ 弐丈壱尺
壱尺六寸
巾 八寸

鷹山の石持の長さが2丈1尺、縦が1尺6寸、幅が8寸というのは、若原(1982)が書き留めた北観音山の石持(天保2(1831)年)の長さ2丈8寸、竪1尺6寸、横幅7七寸とほぼ同じです(p.1386)。鷹山の記録には2本の石持の間隔が記載されていませんが、若原(1982)は北観音山の石持の間隔を3尺2寸としていますから、鷹山も似たような間隔であったのでしょう。

ここまで見てきたように天明2(1782)年に作られた鷹山は現在の北観音山とほぼ同じ大きさだったのです。各御町内の山鉾は競い合って大きく豪華になっていったわけですが、鷹山の約50年後に作られた北観音山の石持が鷹山とほぼ同じ大きさだったのは、それ以上大きくすると、三條通寺町や寺町通四条での辻回しが難しくなったからではないでしょうか。

さて、天明元年に材木として購入し、天明2年の巡行で使われたであろう石持のサイズから最終的な鷹山の大きさを推定するのには無理があります。なぜなら、天明8年1月の天明の大火で、鷹山は「車道具一式焼失」(三条衣棚町文書)として、天明8年から舁山になり、10年後の寛政10(1798)年に曳山に戻したからです。

曳山に戻した寛政10年に使われた鷹山の石持のサイズがわからなければ、鷹山の最終的な大きさは確定できません。

天明の大火で御町内の家々が焼失したのは間違いありません。しかし、鷹山の屋台や懸装品などを収蔵していた土蔵は焼け残った可能性があります。もしそうだとすると、曳山で巡行すると経費がかかるので、急遽、舁山を作成して10年間だけ巡行し、御町内が復興した後に曳山に戻したのではないかという可能性があります。この仮説が正しければ、鷹山の石持のサイズは天明元年の記録にあるとおり

長さ 弐丈壱尺
壱尺六寸
巾 八寸

となり、今の北観音山とほぼ同じ大きさだったことになります。

鷹山の屋台や懸装品が天明の大火で損害を受けなかったのではないかという仮説の検討は、長くなるので別記事にします。

<文献>
若原史明 1982, 「祇園會山鉾大鑑」, 八坂神社.