鷹山の「山」は何処へいったのか?

山洞については、文化11(1814)年に藤田吉右衛門貞榮が著した「増補祇園御霊会細記」で鷹山の項に、

増補
惣而引山といふものハ愚か幼年の比迄ハ此山にかぎらす、上下観音山・岩戸山等何れも洞(ホラ)有て、其洞の上の所にハ屋根なく、屋根ハ青天丼の障子にて、それに上水引をかけ、見途も洞の後一掛たりしか、近年ハ洞もなく、屋根も木の黒塗にして網かくしを附、今ハ鉾(ホク)に眞木(シンキ)のなきばかりなり、かへつて引山といふ趣意ハなくなり、(略)

とあるので、鷹山が最後に巡行した文化、文政の頃には今の北観音山や南観音山と同様に山洞がなくなっていたことがわかります。
著者の藤田吉右衛門貞榮が住んでいたのは古京室町通役行者山町、つまり鷹山の隣の山鉾町ですから、この記述を疑うことは難しいです。

<文献>
藤田吉右衛門貞榮,1814,「補祇園御霊会細記」, 林屋・宇野校注,1992,『神道体系 神社編10 祇園』,神道体系編纂会, pp.424-427.
および 西尾市岩瀬文庫「増補祇園会細記」, 224~226コマ.