鷹山に描いた絵師

2014年頃、鷹山の最終的な形を知ろうとして、江戸後期の絵画を調べてみた。言うまでもないことだが、祇園祭の山鉾は四条通を中心に分布している。また、江戸後期には円山応挙を中心とする絵師たちが四条通近辺に住んで円山四条派という大きなグループを作っていた。それならば、円山四条派の絵を探してみれば、鷹山の絵が見つかるはずだと考えた。幸いなことに、佐々木丞平・佐々木正子 が売立目録の画像を網羅的に集めた『古画総覧』プロジェクトがあり、円山四条派系1~6は刊行済みである。いそいそと『古画総覧』を繰ってみたが祇園会を主題とする作品は極めて少なく「鷹山」を描いた絵は見つからなかった。

円山四条派が祇園祭を描かなかった理由を説明したのは、八反(2010)である。彼は「一八世紀以降の京都画壇には、数多くの著名な絵師が次々と輩出し、まさに百花練乱とでもいうべき時期を迎えた。それにもかかわらず、円山応挙(1732~1795)をはじめとする著名な画家には、祗園祭礼図を主題とした大作が殆どみられない点は興味深い」として、その理由を次の4点で説明している(pp.463-467)。

  1. 版本による地誌や祭礼解説書の出版、流布。
  2. 交通網整備による庶民の旅行ブーム、また女性でも旅行が容易になった。
  3. 宵山が完備され、山鉾巡行よりも人々の注目がそちらに移った。
  4. 絵師の関心が「山鉾を描く」ことから「山鉾に描く」へと変わった。

では、「鷹山に描いた」絵師は誰であろうか。

<天水引「猩々緋雲鳳之縫」>
まず懸装品であるが、天明5(1785)年「鷹山人形錺付目録案文」(三条衣棚文書8105、同志社翻刻02-012)に

天水引 猩々緋雲鳳之縫
鰲山禅師之画

とある。三条衣棚町文書で水引を調べてみると、
「水引代銀手付請取」年未詳5月11日 松屋善助 三条衣棚町文書8162
「水引代銀請取」寅年6月6日 松田善助 三条衣棚町文書8160
が見つかる。
「水引代銀手付請取」三条衣棚町文書8162


一 猩々緋水引鳳凰之縫
但し 巾弐尺弐寸
向七尺五寸
左右五尺六寸位
右 惣より糸縫ニ惣羽尾之類サシ縫糸ぼかしニ而
目水晶右色取は見事随身念入可申候(略)
代六百五十匁定
内金子弐両 五月十一日手附ニ請取申候
五月十一日 さめかい仏光寺上ル町 松屋善助

「水引代銀請取」三条衣棚町文書8160


一 七百匁 猩々緋水引鳳凰之縫代
(略)金 二両先達請取(略)
寅六月六日 松田善助

どちらも「猩々緋水引鳳凰之縫」だが、手附の段階では650匁で最終的には700匁となっている。手附の年は未詳だが、最終的に受け取ったのは寅年である。そこで、三条衣棚町文書の入払帳の寅年を探してみると
「祇園會入拂帳」(三条衣棚町文書8096)の宝暦8(1758)戊寅年の項に

一 七百匁 白鳳縫代
但 六百五拾匁定ニ候得共 五拾匁相増遣

とあり、寅年に白鳳縫を当初650匁の契約だったのに50匁を増やして700匁で取得しており、この「猩々緋鳳之縫」は
宝暦8(1758)年に制作されたものであると判明する。
さらに同じ「祇園會入拂帳」(三条衣棚町文書8096)の宝暦8(1758)戊寅年の項に

一 拾八匁 水引下絵代
井筒屋徳兵衛殿取次
(略)
一 八拾六匁 猩々緋水引下絵之礼

とある。下絵を描いた絵師に、当初は16匁の約束だったのに、礼としてさらに86匁、合計102匁を払っている。井筒屋は文政9(1826)年の宗門人別改帳に「代々浄土宗 金戒光明寺」とある。

以上のことをまとめると

鷹山の天水引「猩々緋雲鳳之縫」鰲山(ごうざん)禅師之画は、宝暦8(1758)年に作成され、下絵は当初16匁で請け負われたのに最終的には102匁になった。絵師に取り次いだ井筒屋は浄土宗である。

となる。

宝暦年間に鳳凰を描いたといえば、真っ先に伊藤若冲(1716-1800)が浮かぶ。鰲山禅師とは若冲の事なのだろうか。ちなみに鰲山といえば中国にある岩山を指す。若冲も天明の頃から石峰寺に居を構えていた。また若冲の菩提寺は浄土宗の宝蔵寺だから、同じ浄土宗の井筒屋と接点があったかもしれない。また若冲は禅宗に帰依していたから禅師ともいえる。ただ
「鰲山禅師=若冲若冲」説
の最大の問題点は、若冲は在家の「居士」とは呼ばれたが、出家の「禅師」とは呼ばれなかったことである。

魚が部首の「鰲山禅師」ではなく、亀が部首の「鼇山(ごうざん)」もいる。ややこしいので本稿では、亀が部首の「鼇山」を「画僧鼇山」と呼ぶことにする。画僧鼇山は井山宝福寺(岡山県総社市)の天井に「水呑龍」を描いたことで知られている。宝福寺は雪舟等楊が修行した寺で、雪舟が自分の涙を墨滴がわりに足でネズミを描いたエピソードが有名である。画僧鼇山は篆刻で名高い佚山黙隠(いつざんもくいん;1702–1778)の実弟である()。

脇田秀太郎(1969など)が画僧鼇山についてまとめている。

享保12(1727)年 松林寺(岡山県庭瀬)再興
寛延02(1749)年 宝福寺(岡山県総社市)仏殿に丸龍を描く(「寛延ニ己巳晩冬中旬(略)松林顒鼇山図画写」) 
宝暦9(1759)年 東福寺にて示寂(「再住東福当山中興鼇山恵顒大和尚禅師示寂、宝暦九己卯年正月廿一日」松林寺過去帳) 

鷹山の天水引「猩々緋雲に鳳凰の縫」の下絵が描かれたのは宝暦8(1758)年であるから、この画僧鼇山と同一人物と考えても不自然ではない。

ただ画僧鼇山については、脇田秀太郎の一連の著作以外に文献がないのが難点である。

<鷹山の屋根裏の絵>
次に屋根については、京都府立総合資料館蔵『祇園會山鉾装鈔』の鷹山の項に
「屋根裏垂木間金箔置 源章画」
とある。「章」の「日」は「田」になっている。この資料は、書誌情報が不十分なこともあり、これまでの研究ではほとんど引用されていない。
ところが年不詳の「鷹山修復方金銀渡帳」(三条衣棚町文書8134;同志社翻刻08-121)に「並河」あるいは「並河彦兵衛」とあり、合わせて3両の稿料を払っている。この金銀渡帳は辰や巳とあるだけで年は不詳だが、町用人の忠兵衛に払った記録がある。文化13年以前の用人は藤兵衛で、文政3(1820)年(庚辰)に用人忠兵衛が登場する。この金銀渡帳は、用人が忠兵衛なので、文政4(1821)年(辛巳)の修復のものとみるのが妥当であろう。
つまり、鷹山の屋根裏の絵は、文政4(1821)年に並河彦兵衛(源章)が描いたのである。源章は応挙さんが亡くなった後の円山派で人気のあった中島来章(並河宇次郎;1796-1871)の父であり、来章の門下から幸野楳嶺や川端玉章が出た。鷹山の屋根裏の絵が描かれた文政4(1821)年には来章は25歳前後であり、来章も源章と共に「鷹山に描いた」のであろう。

<文献>
佐々木丞平・佐々木正子 2000~2005『古画総覧』円山四条派系1~6, 国書刊行会.

八反裕太郎 2010 「祗園祭礼図の系譜と特質」, 植木行宣・田井竜一『祇園囃子の源流』, 岩田書院.

脇田秀太郎 1950 「鼇山のこと」,『土』12, 金光図書館.
脇田秀太郎 1954 「画僧鼇山」,『大和文化研究』2(4), 大和文化研究会.
脇田秀太郎,巌津政右衛門 1969 「岡山の絵画」, 日本文教出版.

(筆写本)
服部敏夏 文政年間 祗園会山鉾装鈔 京都府立総合資料館蔵本.