天明の大火と鷹山

天明8(1788)年1月30日未明、団栗辻子(今は四条大橋の一つ南側の橋、団栗橋の東詰)を火元とする大火は、京都を焼け野原にしました。天明8年の祇園会で巡行できたのは、わずかの山鉾だけでした。

鷹山については、「鷹山舁山届口上書下書」(三条衣棚町文書8088、同志社翻刻08-128)に

申大火後かき山届之下書
口上書
一 当町より例年祇園會六月十四日差出候鷹山之儀、当正月晦日大火之節、道具類過半及焼失候ニ付、

とあるように、正月に大火のあった天明8(1788)年から舁山に変更し、
「鷹山復旧届口上書」(三条衣棚町文書8109;同志社翻刻08-125)に

口上書
一 当町鷹山之儀、去ル申年火災之節、車道具一式焼失仕候ニ
付、同年六月より当分人足ニ荷セ、昨年迄毎年差出来候處、此度如元取繕、東当年より以前之通曳山ニいたし差出申度候(略)
寛政十年午三月

とあるように、十年後の寛政10(1798)年に曳山に戻しました。

ここでは、本当に鷹山が「道具類過半及焼失」、「車道具一式焼失」したのか考えてみます。

<ご神体人形、御衣装、懸装品は焼けていない>
川嶋(2010)は、天明の大火前後の鷹山について

大火に罹災する直前、天明五年の鷹山には、鷹飼(狩衣紗金黒紅・鴛鴦番絵指貫・浅黄地紫 轡唐草)と人形三犬飼(水干紗金松雇・鸚鵡番絵袴・うね桁好紫裳濃)・樽負(水干紗金松重・袴綾嶋)・雉子があり、飾付として天水引( 猩々緋雲鳳王之縫・鰲山禅師之図)・後家台天幕( 金華布)、胴巻として上水引( 紺地滝龍蝦火錦)・中水引(金地百花菊唐織)・下水引(白地大内古金襴形)、それに前掛( 毛織り天鵞織花氈・縁猩々緋縫)と左右の毛織りは前掛と同じで縁が猩々緋蛮画縫、見送が漢縫花鳥・縁猩々緋雲鶴岩頭之縫が所蔵されていたというから、豪華なものである( 12号文書)それが大火後の寛政五年(1793) の「鷹山錺付目録」をみても、大火前のそれと変わるところはない。ということは、鷹山では天明の大火の際、これらの諸錺を安全な所にいちはやく避雛させたか、あるいはなんらかの防火の手をほどこして、ともかくも被害を免れたのである。しかし車道具一式が被響をうけたため、やむなく舁山として参加したのだった。(pp.91-92)

として、鷹山のご神体人形、御衣装、懸装品が大火の前後で変化がないことを述べています。

<曳山に戻した寛政10年の支出は少ない>
富井(1971)は、元文04(1739)から享和03(1803)の65年間の鷹山の収入と支出と調べ上げ、表にまとめています(p.228)
これを支出の多い順に並べ替えてみます。

鷹山支出額(単位銀:匁)

1. 11,140.050 天明02(1782)年 山普請・屋根新調,山木組金物車等直し,人形衣装・犬鷹雉子等新調
2. 2,958.160 宝暦08(1758)年 猩々緋鳳之縫水引(天水引)、天幕等新調
3. 2,699.710 寛保02(1742)年 人形直し,樽・山鳥羽等新調,水引紺地錦・沙金水干狩衣等新調,会所道具補充
4. 2,511.870 延享04(1747)年 見送り寄進(仕立料付属品・裏縁地手間等一切)
5. 2,371.200 明和07(1770)年 唐織水引(中水引)新調,紺地水引(上水引)彩色
6. 1,898.770 寛政01(1789)年 山普請(材木ぬり, その他)
7. 1,523.730 安永05(1776)年 車新調, 囃子方衣装(八講?28 反, 三尺帯26 )
8. 1,466.500 宝暦07(1757)年 車修復, 見送一色入用(修繕か?)
9. 1,051.540 天明08(1788)年 山普請, 組立諸入用出費, 正月の大火のため台車損傷, 本年より舁山に変形
10. 1,049.200 寛政10(1798)年 曳山に復活, 寄進金多し
11. 1,028.020 安永04(1775)年 ゆかた染, 他に自講( ?)15疋(囃子方衣装力)
12. 1,003.140 享和01(1801)年 車2枚新調, 工料とも支払

支出が一番多いの年は、石持、屋台、屋根を新調した天明02(1782)年です。次に多いのは、猩々緋雲に鳳凰の縫の天水引を新調した宝暦08(1758)年です。
天明の大火の後、曳山に戻した寛政10(1798)年は全体の10番目で、急遽、舁山を作って巡行に参加した天明08(1788)年の支出(9番目)よりも少ないぐらいです。天明08(1788)年に新造した舁山は白木だったようで、翌年の寛政01(1789)年には部材を塗る費用がかさんで前年の9割増の支出となり、全体の6番目になっています。ところが寛政10(1798)年に曳山に戻した翌年の支出は、

17. 806.500 寛政11 (1799)

となり、この65年間の平均支出額909.420匁より少ないです。寛政10年に屋台を新造し白木で復興したのなら寛政11年以降に塗りの費用がかさむ年があるはずなのですが、そのような年もありません。

曳山に戻した 寛政10(1798)年の支出額は1,049.200匁で、山普請をした天明02(1782)年の支出額11,140.050匁の十分の一に足りませんし、寛政10年の入払帳には石持や屋台を新造したという記録もありません。天明02(1782)年に購入した石持は2本で521匁ですから、このような多額の項目を入払帳に付け落とすことはないでしょう。
寛政10(1798)年に曳山を新造して曳山に戻したとすると、寛政10年、11年の支出は少なすぎます。天明の大火で焼けなかった曳山の屋台を寛政10年から再び使いだしたと考えればつじつまが合います。

<別帳はないのか>
年不詳の「鷹山修復方金銀渡帳」(三条衣棚町文書8134;同志社翻刻08-121)という文書があります。この金銀渡帳には辰や巳とあるだけで年は不詳です。鷹山が曳山にもどった寛政10(1798)年は午年ですから、この金銀渡帳が寛政8年辰年からの支出記録の可能性があります。しかし項目を拾うと、町用人の忠兵衛に払った記録があります。文化13(1816)年以前の用人は藤兵衛で、文政3(1820)年(庚辰)に用人忠兵衛が登場します。この金銀渡帳では用人が忠兵衛なので、これは文政4(1821)年(辛巳)のもので、寛政10年に曳山に戻した時の金銀渡帳ではありません。

<前祭の山鉾の屋台を借用したのではないか>

<謀書は重罪ではないのか>

<鷹山が「一式焼失」と記載するときと、具体的に損害を書き上げるとき>

<鷹山を10年間、舁山にした効果>
富井(1971)による鷹山入払帳の集計(元文04(1739)から享和03(1803)の65年間)に基づいて、鷹山の平均支出額を、大火の前の曳山期間、舁山にした期間、曳山に戻した期間に分けて計算してみました。

期間 種類 年数 平均支出額(銀、匁) 収入が支出を上回った年
元文04~天明7年 曳山 49年間 1,008.571 0
天明8年~寛政9年 舁山 10年間 510.726 4
寛政10年~享和03 曳山 5年間 764.173 0

舁山にすることにより、舁山の屋台を作る費用を考慮しても支出額が曳山の半分になりました。曳山の時には黒字の年は一度もありませんでしたが、舁山にした10年間のうち4年が黒字でした。鷹山を舁山にすることで祇園祭関係の支出を抑え、天明の大火によって焼けた家屋や店を再建し、商売を立て直すことに注力できたのではないでしょうか。

<まとめ>
寛政10(1798)年に鷹山を曳山に戻した際に多額の費用が発生していないことから、曳山を新たに作ったとは考えるには無理があります。天明の大火(1788年)で鷹山は懸装品類だけでなく屋台類も焼けなかったが、費用節約のために10年間だけ舁山にし、その後、元の曳山に戻したと考えるのが自然でしょう。